ブラックホール撮影の陰に日本の技術 

 

山根一眞氏語る

 

 ブラックホール観測成功のニュースは記憶に新しい。観測の実現は世界6カ所、連携した8台の電波望遠鏡群だ。6カ所のうち最大の貢献をしたのが、南米チリのアルマ望遠鏡だ。長年にわたり同望遠鏡建設プロジェクトを取材し、2017年に『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』(日経BPコンサルティング)を刊行したノンフィクション作家の山根一眞氏に、観測成功に寄せて、万感の思いを寄稿してもらった。

 

◇   ◇   ◇

 2019年4月10日、午後10時7分、東京の学術総合センター(千代田区一ツ橋)で始まった緊急記者会見で国立天文台水沢VLBI観測所教授の本間希樹さんは、こう語り出した。

 「ブラックホールは天文学者が100年追い続けてきましたが、まだ見たことがありませんでした。そこで世界の13機関、200名を超す研究者が国際プロジェクトを組み、その姿をとらえようと2017年4月から取り組んできました。皆さん、よろしいでしょうか……。これが、人類が初めて目にしたブラックホールの画像です!」

 

 

  投影された画像は、オレンジと黄色の輪の中心に見える黒い穴、おとめ座にある楕円銀河、M87の中心のブラックホールだった。

 記者会見は世界6カ所で同時刻に開始したが、そんな科学発表は前例がない。

 アインシュタインが相対性理論によってその存在を予言、天文学者たちが100年追い求めてきたブラックホールの姿を、世界中の人々が同時に見たのである。

 

 ■8台の電波望遠鏡が同時観測

 このブラックホールの観測は、EHT(イベント・ホライゾン・テレスコープ)という国際協力チームが、世界6カ所、8セットの電波望遠鏡で同時観測して得た。本間さんは、「これによって直径が地球サイズの望遠鏡が実現し、その能力は月に置いたテニスボールが見えるのと同じ視力300万相当でした」と説明したが、このあたりから一般の人には何のことやら、「???」だったろう。

  だが私は、「ひゃぁーっ!」とのけぞった。

 「8台の電波望遠鏡セット」の一つが「アルマ」だったからだ。「アルマ」、やってくれたね、あんたは偉いぞ、期待以上の成果じゃないかと、取材途上で投宿中の滋賀県米原市の自室で一人、歓声をあげたのだった。

 離れた場所にある電波望遠鏡(パラボラアンテナ)で同時刻に同天体をとらえスーパーコンピュータで解析すると、2つの電波望遠鏡の距離を口径とする望遠鏡が仮想的に実現できる。この方法を「開口合成法」と呼ぶ。このマジックの発明はイギリスの天文学者、マーチン・ライル(1974年にノーベル物理学賞)による。電波望遠鏡の数を増やし距離をできるだけ離せば、より大きな望遠鏡になる。これら複数パラボラアンテナのセットを「干渉計」と呼ぶ。

 EHTチームは、その理論によって地球サイズの望遠鏡(=合成開口法による干渉計)でブラックホールの観測に挑んだのだ。

 

 ■66台中16台が日本製アンテナ

 「アルマ」は日米欧をコアとする国際協力プロジェクトとして完成した電波望遠鏡群で、パラボラアンテナ66台からなる。これによって、人類史上最大の宇宙を見る「眼」が実現した。建設地は南米のチリ、アンデス山脈の海抜5000m。日本は16台のアンテナの製造を担当した。

 

 チリ、アンデス山脈の海抜5000mに並ぶ「アルマ」望遠鏡。右端が取材中の筆者(写真・日経BPコンサルティング)

 『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』山根一眞著(日経BPコンサルティング) こんな凄いものをよくぞ人類は、いや、日本の天文学者たちは、岡山の町工場のオヤジたちは作ったものだと驚き、感動した私は長い取材を続け、2017年7月、ノンフィクション作品『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』(日経BPコンサルティング)を出版した。

 私も参列した「アルマ」の開所式は2013年4月だったが、あれから6年。ブラックホールの画像ゲット成功は、私の期待をはるかに上回る成果だった。

 『スーパー望遠鏡「アルマ」の……』の出版からやがて2年になるが、私にとってはこの40年間で最大の作品だ。そのため、常にその一冊をカバンに入れて持ち歩いてきた。ブラックホール画像の発表があった深夜、私はその大事な一冊を取り出し、頬ずりをしながら「アルマ、ありがとうね」と語りかけた。それだけではおさまらず、「アルマ」の本拠地、チリに出張中だった国立天文台副台長で2008年から2018年まで東アジア・アルマ・プロジェクトマネージャを務めた井口聖さんと、メールを介してブラックホール観測成功と「アルマ」の役割について、明け方まで語りあったのだった。

 

 ■中学生でもわかるわくわくする物語に

 私の「アルマ」本は、科学書や技術書としてではなく、中学生でもわかるわくわくする物語に書くことを目指した(文化系出身である私の使命はそこにある)。以前、同じ思いで書いた『小惑星探査機はやぶさの大冒険』(マガジンハウス)はベストセラーとなり、東映で渡辺謙さん主演で映画化された。「アルマ」もあの「はやぶさ本」のように描こう、と。

 だが、「アルマ」の全貌を描くことの難しさを味わうことになる。

 「アルマ」は計画から完成まで30年という大プロジェクトで、それをたった一人で取材をしようというのはあまりにも無謀だった。

  やっと執筆を開始したのは2012年だったが、執筆と並行し2回の南米取材を含めて日本全国津々浦々に関係者を訪ねるインタビューは100人におよんだ。2007年まで「アルマ」推進室長をつとめた石黒正人さん(現・国立天文台名誉教授)の取材は約18時間。それでもまったく不十分だった。

 収集した資料も数千ページになったが、それでも情報不足でまた取材に出る、ということを繰り返した。出版予定日を何度も更新、「まだか」と待たれている読者にお詫びの手紙を書いたこともある。原稿は、何とも難解な「アルマ」をわくわくする物語として描くために、30回は書き直したと思う。その甲斐あって、世に送り出した同書は、多くの読者の皆さんから感動したという声をいただくことができた。

 出版が遅れに遅れてしまったストレスから、2014年には突然、両耳がひどい難聴に陥り、失われた聴覚が戻ることはなかった。「アルマ」本は、まさに身を削って世に出したノンフィクション作品なのである(もっとも、おかげで歴代米国大統領がひそかに装着していたのと同じ世界最高性能のデジタル補聴器、スターキー社製を装着、むしろそれを楽しんでいるが)。

 この「アルマ」取材は、1999年、ハワイ島、マウナケア山頂で建設中の「すばる望遠鏡」の完成が近いというので何度目かの取材で訪ねた時に始まる。国立天文台の海部宣男さん(ハワイ観測所初代所長、後、国立天文台長)から、「『すばる』の次は『「アルマ」』です。ぜひその取材も」と言われ、興味を惹かれたのである(海部宣男さんは、ブラックホール観測画像発表の直後に他界された)。

 富士山の上に中国地方の臥龍山を乗っけたほどの高地で、酸素の量(酸素分圧)は海面の半分。人が生きていける高度ではない。

 私は20代の半ばに5カ月間にわたり南米8カ国を放浪しているが、その途上、ペルーのアンデス高地、標高4800mの峠でバスが故障し立ち往生したため、高山病になった。経験したことのない、槍で脳味噌を突き刺されるような激しい頭痛と息苦しさが1日続き、このまま死ぬのかという辛さを味わった経験があり、5000mの高地に望遠鏡を作るなど無謀にしか思えなかった。

 

 ■山手線と同サイズのレンズの望遠鏡

 「アルマ」の建設地は、草木が一本もない荒涼とした乾燥地。そこに移動可能な66台ものパラボラアンテナを建設。その66台を移動し山手線ほどの広さに点在させると、山手線と同じサイズのレンズを持った望遠鏡になる。ブラックホールをとらえたEHTと同じ「合成開口法」による観測だ。これで人類が見たことのない宇宙の姿をとらえ、宇宙誕生の謎を解くというのだ。

 そんな話を聞いて黙っていられるわけがなく飛びつき、取材を開始。

 「アルマ」現地取材の際には、ブラックホールの観測成功の記者発表を行った本間希樹さんにブラックホールについて聞く機会もあった。

 こうして「すばる」取材から18年後、やっと『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』を世に出すことができたのである。

 ブラックホールの観測は世界6カ所、「8台の電波望遠鏡で行った」という報道が多かったが、これは正確ではない。

 参加した世界各国の電波望遠鏡はいずれも数台のセット(干渉計)だったからだ。

 国立天文台の平松正顕さん(広報担当の天文学者)によれば、「アルマ」は直径12mの電波望遠鏡37台を組み合わせることで、直径37m強の望遠鏡としてブラックホールの観測を分担した。他の7カ所の電波望遠鏡も複数台を組み合わせて観測したが、それらは直径10〜30mに相当する規模ゆえ、「アルマ」は圧倒的な高感度といえる。つまり、「アルマ」によってブラックホール観測全体の感度を向上させることができたのだ。

 

 ■「アルマ、ありがとうね」と頬ずり

 私が「アルマ、ありがとうね」と「アルマ本」に頬ずりしたのは、そういう「アルマ」の大きな貢献ゆえだったからなのである。

 日本の記者会見では、「それは私たちに何の役に立つのか」という質問が出たようだが、バカ言っちゃいけない。それは、たとえば「法隆寺の十倍という規模の奈良時代の大伽藍が発見された」と興奮気味に発表した歴史学者に、「その発見は何の役に立つのか」と問うのと同じことなのだから。

 「私」は、ほぼ真空の宇宙に浮かぶ地球という惑星の上で生まれた。それは、私が宇宙の一部として生まれたことを意味している。つまり、「私」とは何かを知るためには、宇宙とは何かを知らなくてはいけない。それを知ろうと追求し続けてきたのが人類、人類だけが手にしてきた文化というものだ。「アルマ」の建造も「ブラックホール」の観測も、かつて哲学や思想が目指していたゴールを、先端科学も目指そうという挑戦なのである。

 その挑戦を可能にするために、天文学者とともに建造を担当した三菱電機のエンジニアたち、数多くの町工場の若い技術者やオヤジさんたち、富士通のコンピュータ技術者やプログラマーたちが血のにじむような努力を続けた結果、完成したのが「アルマ」なのである。完成間近には、チリ在住の日本人天文学者が強盗に襲われ殺されるという悲劇にも見舞われたが。

 『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』は、「アルマ」の実現に向けて努力を尽くしたすべての人々に対する尊敬と感謝を込めて書いたが、その「アルマ」はブラックホールの観測成功というはかりしれない成果まで見せてくれたのである。

 

 

山根一眞

 

 

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