令和の知をひらく(1)
「意識の移植」が問う倫理
脳科学者・渡辺正峰氏
令和の時代、私たちの生きるこの世界はかつてなく激しい変化に見舞われるだろう。未来を生き抜くための新たな知が求められる。気鋭の識者に聞く。
人間の意識を機械に移植する研究を進めている。米グーグルでAI(人工知能)研究を率いるレイ・カーツワイル氏は、今世紀半ばにはこれが実現すると予言している。私自身は、3月に始動したスタートアップなどを通じて、20年後メドの成功を目指している。令和のうちに、人間が機械の中で永遠に生き続ける時が来るかもしれない。
現在は、マウスの脳と機械を接続するための実験に取り組んでいるところ。実験にはマウスの訓練が必要だが、これが可能なことは確認できた。マウスでうまくいったら次はサルで実験し、ゆくゆくは私自身の脳と機械をつなぐつもりだ。
■脳と機械を接続し、徐々に人間の意識を浸透させていくのだという。
米国では実際に研究されているが、「脳の構造を完全に読み取り、機械として再現する」なんてことは、少なくともあと100年はできないだろう。
私が提案しているのは、脳をニュートラルな意識を有する機械(コンピューター)と長期間つなぎっ放しにする方法だ。そうして、比喩的にいえば「機械を私色に染める」。完全に染まったとき、移植は完了する。すると肉体が滅びた後も、機械の中で「私」の意識は永続できるようになる。
人間の脳において、右半球と左半球を統合するために必要な神経線維の数、やり取りしている信号の数は思いのほか少ない。脳と機械の接続に必要なブレーン・マシン・インターフェース(BMI)の開発は十分に可能だと考えている。
もっとも、人間の脳はすさまじく複雑だ。物理におけるニュートン力学のような基本的理論さえなく、未知の領域はあまりに広い。多額の寄付をした米マイクロソフトの創業者ポール・アレン氏のような、脳科学研究の旗振り役にもっと出てきてほしい。
■人間が不死の存在になるとしても、それを望む人は決して多くはないという。
講演で聴衆に「意識を移植してみたいですか」と聞くと、意外にも手を挙げるのは100人いたとして数人にすぎない。私は中学生のころから「死にたくない」と思っていたのだが。
意識の移植が可能になる時代には、今の感覚からすると抵抗のあることがいくつも出てくるだろう。意識のコピーは許されるのか、複数人の意識を結合していいのか――。いずれも科学的には可能になることだ。
今の倫理や宗教、文化は「人は死ぬ」ということを前提としているが、これも大きく変わっていくはずだ。数百年後の人類からすると、「昔は『死』なんていう野蛮なものを受け入れていたのか」なんてことになるかもしれない。
わたなべ・まさたか 1970年千葉県生まれ。東大准教授。専門は脳神経科学。著書に「脳の意識 機械の意識」。
令和の知をひらく(2)
ネットの「無」に抗う時
作家・上田岳弘氏
世界というシステムは複雑になりすぎて、何がどうなっているのか理解しようとしてもできない。ほとんどの人がシステムの利便性を享受するだけで、その実相を知ることはできない。そう気づいたとき、私たちの心に諦めのような気分が兆してくる。
今や膨大な情報がサーバー上に蓄積されている。インターネットは情報の収集効率や共有速度を格段に上げたが、それらの情報はただばらばらに私たちの前に差し出されている。大事な意見とさまつな意見の判別がつきにくく、全体として見ると何も言っていないのと等しい。ネットは巨大な「無」と同じだと、私には思える。
何が原因で目の前の現実が生じているのかを知ろうとするのが、人間という知的生命体だ。いまネットの圧倒的な知によって、私たちはこの世界のあらゆる因果関係が解明されうるような気がしている。全てはあらかじめ決まっているという感覚だ。どんな行動を起こそうとも結果は何も変わらないということになる。それが諦めの感覚を生む。
■ネットの知を手にした人類という種は「老化」しているとみる。
人の年齢は記憶の総量、すなわち触れてきた情報の総量だと私は考えるが、だとすると、ネットで大量の情報にさらされている現代人は間違いなく年をとっている。いわば人類という種が加齢しているといえる。年をとるとあらゆることにこだわりがなくなるというが、種としての人類もこだわりや執着をなくしてしまっているのではないか。 そんな状況に抗(あらが)うには、私たち一人ひとりの生きる姿勢が大事になってくるだろう。自分は何にこだわり、何が気になっているかを自問し、そこを起点に情報を探らなくてはならない。そうして初めて、私たちはサーバーに蓄積された情報に能動的にアクセスでき、自己決定権を自らの手に取り戻すことができる。
■ネットでいくら利便性が高まっても、人間には技術で代替できないものが残るという。
コンピューターが現実社会を数値化し、インターネットはその領域を拡大してきた。フェイスブックやラインなどの交流サイト(SNS)は人間関係の勘所を精緻に計算した上で、文字や写真を使った手早いコミュニケーションを可能にした。こうして他者と実際に会っているかのような感覚を得られても、人間にはそれだけでは満たされない部分がある。
ネットを使うほどに、そこからこぼれ落ちるものが逆にはっきり見えてくる。例えば「会いたい」という思いや、実際に生身の人間に会ったときに心にわき上がる感情は、ネット上のコミュニケーションでは決して得られない。どんなに技術が進歩しても、仮想化しきれない領域が残る。少し気恥ずかしいが、それが「愛」というものなのかもしれない。作家である私は、そこにとても興味がある。
うえだ・たかひろ 1979年兵庫県生まれ。著書に「塔と重力」「ニムロッド」(芥川賞)など。今月末に「キュー」を刊行。
令和の知をひらく(3)
他者の性と欲望認める
哲学者・千葉雅也氏
現代社会は人間をどんどん単純に捉えるようになっており、私はそのことに危機感をおぼえている。その一例が性だ。
個人の性的な欲望のあり方や、生物学的な性(セックス)と社会的な性(ジェンダー)の間のズレは複雑な問題だ。だがこの問題に対する人々の態度は繊細とはいいがたい。人間の本質である性を平板にとらえてしまっていいのだろうか。
■「LGBT(性的少数者)」という言葉は浸透したが、この概念では捉えきれない性の姿がある。
近年は自身の性的指向をカミングアウトする著名人が出てきて、日本でも2010年代後半からLGBTという言葉をよく耳にするようになった。だが問題がある。「総称」でひとくくりにされることによって、個々の微妙な違いや衝突が見えなくなってしまうからだ。行政的なスローガンとなった「ダイバーシティー(多様性)」という言葉にも同様の難点がある。
私は、一人ひとりの性の複雑な差異に目を向けた「クィア」という言葉を使いたい。一つの性的アイデンティティーには安住できない人を意味する用語だ。1990年代初頭、英語圏のジェンダー・セクシュアリティー研究の中で提唱された。もとは「変態」「おかま」といった意味で侮蔑的に使われていた言葉だが、それをあえて肯定的にとらえ直した経緯がある。
また「マジョリティー(多数派)」の中にも「男(女)らしさ」という価値観に複雑な思いを抱き、男(女)でいることに居心地の悪さを感じている人はたくさんいる。このような人たちには「クィアさがある」といえるだろう。「ゲイ」「レズビアン」などという安易な分類ではなく、人間の性の様態はそれぞれ異なるということに目を向けなければならない。
■マイノリティー(少数派)を「弱者」と見ることの暴力性を指摘する。
同性カップルがマンションを借りられるようにしたり、パートナーシップ(結婚に相当する関係)を認めたりといった制度保障を進めていく努力は当然必要だ。だがこうした対応を求める社会運動の中にも、問題は存在する。「マイノリティーは弱者だから救済しなければならない」という論理が内在しているからだ。
こうした論理がなぜ出てくるかというと、そうしなければ今の社会ではマジョリティーの理解が得られないからだ。この論理を解体する別の論理をどうつくっていくのか。それが問われていると思う。
強いか弱いか、多いか少ないかが問題なのではない。人間には優劣ではなく、ただ差異があるだけだ。だから「自分と違う欲望で生きている人間がいる」ことをそのまま受け入れ、認めることが大切だろう。そうすることによって初めて私たちは単純な人間観を脱し、本当の意味で多様性に満ちた世界が可能になるだろう。
ちば・まさや 1978年生まれ。立命館大准教授。専門はフランス現代思想。著書に「勉強の哲学」「意味がない無意味」など。
令和の知をひらく(4)
絶対の正解求める危うさ
歴史学者・呉座勇一氏
日本人は歴史好きといわれるが、大人になってから学び直す機会は少ない。歴史に材を取った小説やドラマも古い学説にのっとっていることが多く、最新の研究成果が一般の人まで届いていないのだ。
大学で教えていると学生から「習ったことと違う」「なぜ高校で新しい知見を教えてくれないのか」という声が上がる。だが問題の根本はそこではない。「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。
■情報の更新に目を向けず、「絶対の正解」を求める姿勢を問題視する。
歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。性急に答えを欲しがり、飛びつくのはポピュリズムだ。
新しい時代を生きる上で重要なのは「これが真実」「こうすればうまくいく」という答えらしきものに乗せられることなく、情報を評価するスキルではないか。ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。
歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。女性・女系天皇を巡る議論も、歴史を知ることなしにはできない。
もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。
■一方で、歴史から手っ取り早く教訓を得ようという姿勢は危惧している。
目的意識が先に立つと、歴史を見る目がゆがむ。自らの見たいものを過去に投影し、事実でないものを教訓にしてしまう。自説の補強や正当化のために歴史をゆがめられては困る。
歴史を叙述すれば、どうしても物語に接近していく。だからといって、書きたいように書けばいいわけではない。正解がわからなくても「これはあり得ない」ということはある。間違った事実に基づく主張に対して、歴史的事実が誤っていると指摘するカウンターの役割を、歴史学者は担うと考えている。
私が専門としている日本の中世は、権力の軸が見えづらい、多極的な社会だ。現代に通じるものがある。見通しが立たない時代こそ、リアルタイムの動きばかり追っていると、変化の波に翻弄されてしまう。歴史を振り返り、長期的な視野に立つことが大切だ。
ござ・ゆういち 1980年東京都生まれ。国際日本文化研究センター助教。著書に「応仁の乱」「陰謀の日本中世史」など。
令和の知をひらく(5)
「貸し借り」が広がる社会に
文化人類学者・小川さやか氏
ICT(情報通信技術)がもたらす社会経済の将来像は、近代以前との共通点が多い。例えばブロックチェーンによる仮想通貨は、ミクロネシアのヤップ島でお金のやりとりを記憶するための「大きすぎる石の通貨」と論理が似ていると指摘される。新時代の知を考えるには、文化人類学の蓄積が役に立つはずだ。
今の日本社会に広がっているのは、将来への不安と自己責任という考え方だ。子供は50年後を見すえて勉強に励み、大人になると老後に備える。いったい人はいつ「今」を生きるのだろうか。社会保障は整っているのに、それに頼りやすい雰囲気もない。そこから閉塞感が生まれる。
■タンザニアの零細な行商人や貿易商のフィールド調査を重ねている。そこには不確実な挑戦や失敗からの再起を支える仕組みが構築されていた。
彼らの働きぶりはまったくまじめではないが、困っても何とかなっている。あすがどうなるか分からない日常の中で周囲の人々とゆるくつながり、ネットワークによってリスクを分散しているのだ。
象徴的な経験がある。ある友人に好きな女性ができた。初デートの日、私や仲間は靴や服を貸して身なりを整えさせ、ハイスペック男に仕立てた。交際に入るとばれたが、結婚にこぎ着けた。いざというときにモノを貸してくれる友人がいるなら、モノを所有しているのに等しい。そこが結婚相手として評価された。
貿易ブローカーの友人は、私が大学教員と知って「レアキャラ、ゲット!」と喜んでいた。彼のスマートフォンの連絡先には高級官僚と取引先と犯罪者が並んで入っている。カギになるのは多様性だ。ほんの小さな貸し借りでつながっていて、いざとなれば誰かが力になってくれる。
■科学技術の更新が速まると、個人が培った専門性の価値は不安定になる。様々な人を相手に多様な仕事の経験を積むことが「保険」になるとみる。
タンザニアでは友人に誘われるなど「ついで」で仕事に乗り出す人が多い。求められれば事業の秘訣をすぐに教え、取引先も紹介する。手持ちの資金に見合ったビジネスで、失敗しても誰かが助けてくれて、再挑戦もできる。それは小さな「借り」であり、返済は求められない。代わりに自分に余裕ができたとき、困った誰かを助ける。
インターネットは地縁や血縁による共同体を超え、不特定多数の人々とのつながりをもたらした。そんな関係の中で、他人に親切にすると、長い目でみれば帳尻が合うという「互酬性」が生まれつつある。飲食店やサービスを星の数で評価する方法は、やがて個人にまで広がるかもしれない。
競争や挑戦は楽しいが、日本では努力主義的になりがちだ。だがそういう世界は疲れる。資本主義の中に、互酬性に基づく贈答経済が自衛的にできていくと私はみている。
おがわ・さやか 1978年愛知県生まれ。立命館大学教授。著書に「『その日暮らし』の人類学」など。
令和の知をひらく(6)
違和感から目覚める自分
作家・村田沙耶香氏
女性は見た目に気を使い、料理上手で、「女の子として優秀」でなくてはならない。そんな価値観にずっと違和感をおぼえてきた。自分だけのことなら笑ってやり過ごせる。でもこの状況を何も変えないまま若い世代にバトンを渡してしまっていいのだろうかと、複雑な気持ちになっている。
■男性社会がつくり上げてきた「女性性」は、知らず知らずのうちに女性たちを抑圧してきた。
平成元年に10歳になった。当時はバブル経済の末期で、ボディコン姿の女性と「(送り迎えをする)アッシー君」や「(食事をおごる)メッシー君」のことをメディアで知った。若い女性が体を露出して、男の人がごちそうするという構図に気持ち悪さを感じた。
高校時代は「女子高生ブーム」の全盛期だったが、ポケベルやルーズソックスなど女子高生のアイコンとされるものは身に着けなかった。今思うと、ボディコンギャルも女子高生も、メディアがキャラクター化して盛り上げ、若い女性がそれを演じさせられているのが嫌だったのだと思う。
自分が大人になってから、ある大学生と話をして、とてもつらい気持ちになったことがある。彼女は「自分は容姿がよくないから、就活もするけれど、女子大生というブランドがあるうちに婚活もする」と言っていた。自分で食べていくことを初めから諦めて、身売りのような発想をしていることが悲しかった。
■心の奥の違和感に気づくとき、人は主体的に生き始めることができる。
人間の本性と考えられているものは、実際は社会によっていつの間にか植え付けられた考えにすぎないかもしれない。そう気づき、違和感を持つことを私はネガティブには捉えていない。違和感があるというのは、眠っている自分の意志があるということだから。
昨年刊行した「地球星人」という作品に、自分を魔法少女だと信じる主人公が「いつになったら、生き延びなくても生きていられるようになるの」と問うシーンがある。自分の意志を目覚めさせ、自分の価値観で「生きる」こと。それは違和感をそのままにして、ただ「生き延びる」のとは違う。たとえ世界との摩擦は激しくなったとしても、人間は自由に生きるときに初めて感じる喜びというものがあるはずだ。
私は社会のあり方への反発やメッセージを込めて小説を書くことはない。でも作品の中に人の心の痛みや苦しみを保存できると思っている。私自身もこれまで読んできた小説からそれを受け取り、「自由に生きていい」「男性の都合に合わせるのではなく、自分で選んで恋をしていい」と思えるようになった。
小説を読むという行為が、読者にとって心を解放するきっかけになってほしい。そうして、私たちが次の世代に渡すバトンが少しでも良いものになっていけばと願っている。
むらた・さやか 1979年千葉県生まれ。著書に「殺人出産」「消滅世界」「コンビニ人間」(芥川賞)など。
令和の知をひらく(7)
人文学 自然科学の視点を
哲学者・篠原雅武氏
哲学や文学、歴史学といった人文学、いわゆる文系の学問の関心は、とどのつまり「人間とは何か」という点にある。人間についての研究なのだから、今まではおおよそ人間が作り出したものだけを見て議論していればよかった。
「人間を見ているだけでは、人間のことはいつまでたっても分からない」。近年、そう思う人が出てきた。資本主義とかナショナリズムとか、人為的な仕組みだけを取り上げて話をすることに、行き詰まりを感じているのだと思う。
■地球や自然といった、人間の外側にある存在とのつながりを強く意識する人文学に変えていく。そのカギとなる概念として「人新世」を挙げる。
社会や文化、国家など、人文学がなじみにしてきた枠組みから一度離れて、人間が生きる条件を考えてみる。そうすると、浮かび上がってくるのは「惑星」、すなわち「人は地球の上で生きている」という発想だ。当たり前ではないかと言われるかもしれない。だが人文学からすると、これはほとんど盲点になってきた考え方だ。地球、惑星、宇宙などという対象は、自然科学、理系の領分だという意識が強かった。
「人新世」は20年ほど前に、地質学上の時代を区分する新しい仮説として登場した。人間の活動が地球環境に無視できない影響を与えるようになった時期を指す。大ざっぱに言えば、欧州で産業革命が起こった18世紀後半から現在に至る期間だ。科学技術の発達や人口増加、天然資源の浪費などが、火山噴火や隕石(いんせき)の衝突、巨大地震に匹敵するインパクトを持つと考えられるようになった。
理系の分野で唱えられた「人新世」を人文学に取り入れることで、地球や自然で起こりつつあることを、人間と切り離せない切実な問題として議論できるようになると期待している。
先日、人間の活動で約100万種の動植物が絶滅の危機にひんしているという報告を国連が出した。そうした事実を客観的なデータを元に把握し提示するのは自然科学の仕事かもしれない。だが、それを人間がどう受け止め、どんな行動を起こしていくのか議論する段階では、人文学が貢献できる。いや、むしろ、人文学こそが倫理学や歴史学などの分野で議論の土台を整えるべきだろう。人間以外の生物種の絶滅は、巡り巡って人間の衰退、ひいては絶滅につながっていくだろうから。
■人間の未来を考えるには、人文学だけでなく、芸術も役に立つという。
写真家の川内倫子さんが東日本大震災の被災地を撮った作品には、自然の猛威に対する人間の生活領域の「もろさ」がいち早く表現されていた。うまく言葉で説明できないようなことにも、アートは感覚的に触れることができる。アートを通じて、人は日常の先にあるものに手が届くのではないだろうか。
しのはら・まさたけ 1975年横浜市生まれ。哲学者、京都大学特定准教授。著書に「人新世の哲学」など。