「死ぬ権利」はある?


戸惑う現場 終末期患者、飲食拒否のケ−ス



意思の尊重 国内議論進まず



 患者が自らの意思で飲食を拒み、死を早めようとする行為に医療現場で困惑が広がっている。終末期医療に関わる医師の3割ほどがこうした患者を診たという調査がある。「苦痛などから逃れたい」という思いなどが原因とみられるが、欧米では「患者の権利」として医療者けのガイドブックもある。「死ぬ権利」はあるのか。医療現場は苦悩している。

 「いっそのこと、死なせてくれないかな」。末期の眸臓がんを患い、日々苦痛に見舞われていた神戸市の70代男性は、ホスピスの担当医、新城拓也医師にいつもと変わらない穏やかな口調でつぶやいた。「死にたいと考えるほど追い込まれているのですか」。新城医師はこう返すことしかできなかった。

 新城医師が経験したのは約10年前。「ここまで強く死を求められたのは初めて。どうしてよいのか分からなくなった」と振り返る。



 
「薬で眠らせて」

 男性は自力で飲み食いができる状態だったが、長くとも2ヵ月程度で亡くなとみられていた。「先生が死なせてくれないなら、飲み食いをやめる。薬で眠らせてほしい」。反対する妻や新城医師の思いとは裏腹に、男性の意思は強く、一切の治療も拒否した。

 そのため新城医師は看護師などと相談を重ね、最終的に睡眠薬を微調整して本人が望むように少しずつ眠らせることを決断。男性は1週間ほどで亡くなった。

 「医師としてどう対応すればよかったのか」。悩み続けた新城医師は男性が実行したものが「VSED(Voluntarily Stopping Eating and Drinking)」であると知ったのはそれから数年後のことだった。

 日本緩和医療学会と日本在宅医学会の2016年の調査によると、終末期医療に関わる医師の3割ほどがこうしたVSEDを試みた患者を診たことがあると回答。このうち患者の人数については「1〜5人」が29%と最多で、「10人以上」と答えた医師もいた。

 日本では患者やその家族から強い要望があったとしても、医師が自らの手で致死量の薬剤を投与するなどして患者を死に導いた場合、司法で処罰される可能
性がある。

 調査を主導した新城医師は現在、訪問診療医として緩和ケア専門の「しんじょう医院」(神戸市)の院長を務める。患者でVSEDを実行したのは神戸市の男性のみだが、「日本の医療現場ではVSEDという言葉があまり知られていないだけで、実際に試みようと考える患者は一定数いる」と指摘する。

 欧米の医療現場ではVSEDは知られた言葉となっている。米国では17年、看護師協会がVSEDを「患者の権利」とし、その意思を尊重すべきだとする声間を出した。オランダではVSEDを実行する患者のケアについてガイトブックが存在する。



 
安楽死の「代替」


 オランダの場合、安楽死の「代替手段」としてVSEDが患者の間で広がった。同国では安楽死が認められているが、誰でも希望すれば受けられるわけではなく、余命の長さや苦痛のレベルなど厳格な基準が定められている。

 安楽死を請け負うオランダのあるクリニックの調査によると、受診した25%の患者が実際に安楽死を遂げた一方、47%は条件を満たしていないと判断。19%は基準を満たしているかとうかを審査している間に亡くなっていた。

 基準を満たしていない場合でも、VSEDであれば飲み食いをやめるという単純な方法で死期を早めることができる。このため医療者側は自らの意思で実行する患者に対しては睡眠薬の調整などの緩和ケアを施すケースもあるという。

 ただ欧米でもVSEDを容認すべきか医師によって意見が分かれており、倫理的な観点や違法性などについて議論が続いている。

 日本では患者の「死ぬ権利」について議論が進んでいない。実際に実行する患者がいた場合、新城医師は「飲食をやめるのは強い身体的苦痛を伴う。まずはそうした行為をやめることを求めるべきだろう」と話す。ただ医療者側が行動の意味を理解していなければ正しいケアを患者が受けられない懸念もある。

 新城医師は「終木期の患者は『死にたい』と『生きたい』という相反する感情を同時に持ち合わせている。だが実際に死にたいと考えている人は少ないのでは」とみる。そのうえで「まずVSEDを認める国の人権感覚を学び、こうした意見にどう向き合い、応えていけるかということを考えなくてはいけない」と強調している。



尊厳死、法整備の動き鈍く

 

 尊厳死法制化を考える議員連盟がまとめた法案の要点(2012年)

 延命治療を中止する「尊厳死」の権利を法律で定めるべきか否か。「消極的安楽死」とも呼ばれるこうした選択について、日本では法整備の動きは鈍い。

 厚生労働省は2007年、終末期医療で「患者本人の決定が基本」とする初の指針を公表、一般的に尊厳死を容認する方針を示した。06年に富山県の病院で人工呼吸器を外された50〜90代の末期状態の患者7人が死亡した問題が発覚し、医師が殺人容疑に問われる刑事事件に発展したことがきっかけだった。

 厚労省は18年3月に指針を改訂し、自分の意思を家族や医療従事者とあらかじめ共有することが重要とした。ただ医師や救急隊員らが尊厳死に関かった場合、法的責任を問われる可能性はゼロではない。法的リスクを懸念し、治療の中止に応じない医師もいる。

 12年には超党派の議員連盟が尊厳死法案をまとめた。日本尊厳死協会(東京)は「自分の最期を自分で決める考えを生かすため法整備が必要」と賛同する。同会によると、欧米はほぼ全ての国が尊厳死を法的に認め、近年韓国や台湾でも法律ができた。

 一方、「医療費抑制や臓器提供への期待につながるのでは」「死という個人的なものに法律が関与すべきでない」など反対の声も根強い。

 難病患者の在宅治療を支えるNPO法人「さくら会」(東京)の川口有美子副理事長は「介護の継続が難しく、やむなく治療停止を選ぶ患者もいる。それは『合意』ではない」と指摘。「まず患者の権利を擁護する法律を作り、治療を続けたい患者の思いも保障すべきだ」と話している。 

 

 

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