アスリート事業家の冒険(4)
「メダル取れば」は幻想
フェンシング太田雄貴の革命
日本のオリンピック競技団体の中で最年少のトップといえば、日本フェンシング協会会長の太田雄貴だ。日本人のフェンシング史上、初の五輪メダリストとなり、2020年東京大会招致でも活躍した若きリーダーはいま、「メダル至上主義との決別」を掲げて協会改革にまい進する。五輪に愛されたアスリートらしからぬ旗印は、マイナースポーツの悲哀が原点だった。
■アトラクション満載の全日本
昨年12月9日、太田はパリにいた。目覚めは早朝5時。妻でTBSアナウンサーの笹川友里を伴っての渡仏は国際フェンシング連盟の会議とガラパーティーに出席するためだったが、早起きには別の理由があった。太田の心は8時間の時差がある東京に飛んでいた。
全日本選手権はエンターテインメント空間と化した 画像の拡大 全日本選手権はエンターテインメント空間と化した
その日は自ら大会運営の陣頭指揮にあたってきた全日本選手権決勝の当日だった。大会前から会場が話題を集めていた。「ジャニーズの聖地」として知られる劇場、東京グローブ座(新宿区百人町)。体育館を舞台とした過去の全日本とは運営も雰囲気もガラリと様変わりした。前年の約4倍にあたる最高5500円で発売したチケット約700枚は40時間で売り切れた。取材申請が殺到し、報道席はまるきり足りていなかった。
太田の期待と前評判を裏切らない、盛況の大会となった。これまでのイメージを一変するアトラクションや演出に満員の場内は沸き立った。剣士の格好をしたダンサーがステージを舞い、DJが客席を回りながら観客との一体感をつくりあげる。ビギナー観戦者にも試合をわかりやすく伝える工夫が随所にみられた。LEDの大型スクリーンでは得点や時間だけでなく、選手の心拍数を表示。防具で顔が見えない選手を「伝える」ためのアイデアだ。日本協会のホームページにアクセスが殺到し、サーバーがダウンした。
開会中、LINE(ライン)でスタッフと連絡を取り続けていた太田は閉幕後、遠くパリからツイッターに投稿した。「僕のワガママを叶えてくれた選手、審判、コーチ、スタッフ(中略)、全ての皆様に感謝です」
太田肝煎りのイベントだった。東京グローブ座は旧知のジャニーズ事務所副社長、藤島ジュリー景子に直談判して借りた。それまでの体育館を離れ、俳優やミュージカルダンサーがスポットライトを浴びる舞台を会場に選んだのは、太田なりの強い信念があったからだ。
「忘れられない1枚」と語る写真がある。2013年に東京・国立代々木競技場で開催された全日本、男子フルーレ決勝の模様を写したものだ。この前年のロンドン五輪で太田とともに団体戦で銀メダルを獲得した千田健太と三宅諒が日本一をかけて戦った。メダリスト同士の頂上対決。だが、スタンドに観客の姿はほとんど写っていない。この日の観客数は150人。写真が伝えたのは、4年に1度の五輪でしか注目されないマイナースポーツの悲しい現実だった。
■自ら稼げる協会を目指して
怒りにも似た危機感が太田の心をとらえていた。「僕らはずっとメダルを取ったら人生変わるぞ、メジャーになれるぞ、と言われ続けてきた。でも、僕がメダルを取っても国内の大会はいつもガラガラ。強くなれば見てもらえるというのは幻想で、大会そのものが変わらなければダメだと思ったんです」
太田自身、08年北京五輪で銀メダリストになり、人生が大きく変わったアスリートだ。同志社大の卒業時に競技活動に理解のある企業が見つからず、就職しないまま五輪を目指したことから、メディアなどで「ニート剣士」と呼ばれた。だが、メダルを獲得するとオファーが殺到。森永製菓への就職を発表した記者会見では、人目をはばからず涙した。
だから、メダルの力を否定するつもりはない。ただ、メダルさえあればすべてが好転するという、それまでの協会上層部の妄信と無策には強い疑問を感じた。フェンシングに限らず、経済力に乏しく資金の多くを選手強化に集中せざるを得ない競技団体ほど、メダルで一発逆転という"救世主願望"に陥りがちだ。それでは競技としての成長拡大は望めない。フェンシングもこの10年で競技人口を1400人しか増やせなかった。太田が強く意識するのは、メダル至上主義からの脱却であり、自ら稼ぐ力のある協会への変身。その象徴が全日本のエンターテインメント化だった。
自らトップセールスに奔走し、大会協賛は前年の6社から11社に増えた。ささやかながら初めて選手に優勝賞金(10万円)を出すこともできた。最高の舞台で最高のパフォーマンスを発揮させる。それが太田の考える「アスリートファースト」だ。
太田が日本フェンシング協会の会長に就任したのは17年8月。16年リオデジャネイロ五輪を最後に現役を退いてからわずか1年後のことで、本人も「青天のへきれき」と振り返るサプライズ人事だった。
その2カ月前の同年6月、太田は31歳の若さで初めて理事に選出されていた。新理事たちが集まって最初の理事会。当時の会長が突然辞任を申し出て、「後任は太田君にお願いしたい」と言い添えた。水面下で調整してきた役職案が反発に遭い、自身への不信任と受け止めた末の決断だった。他の理事1人がその場で会長に立候補したが、採決の結果、圧倒的多数で太田が選ばれた。
引退の1年後、協会会長に。様々なプロジェクトを打ち出している 画像の拡大 引退の1年後、協会会長に。様々なプロジェクトを打ち出している
「何の根回しもなし、偶発的な新会長誕生だった」と理事の1人は振り返る。ただ、その後の太田の行動力を見ると、早晩会長になるものと覚悟して備えていたのではと思えてくる。就任して1年半あまり、「アイデアに価値はない。行動あるのみ」と語る太田は矢継ぎ早にアクションを起こしてきた。
■新種目のヒントは「スター・ウォーズ」
大会改革はその一つに過ぎない。デジタル映像技術を駆使して剣の軌道を表現する「フェンシング・ビジュアライズド」は東京五輪での放送を見据えたもの。学校訪問や体験教室の全国展開に加え、最近はサーベル、エペ、フルーレに次ぐ「第4の種目」の開発にも本気で取り組んでいる。映画「スター・ウォーズ」に登場する光の剣「ライトセーバー」を参考に、用具開発とルールづくりの真っ最中。現在約6000人の国内競技人口を5万人に増やす目標を掲げる。成功すれば、用具売上や大会参加料、スポンサー収入などで一気に協会の収益の柱に育つ。そんなもくろみがある。
「すべてゴールから逆算して戦略を立てている」と太田。「戦略」は最も重んじるキーワードだ。「フェンシングで僕が一番学んだのは、足りない自分が世界で勝つにはどうすればいいか、ということ。ヒトもカネもない協会を勝たせる挑戦と似ている」。身長190センチ台がざらにいる海外勢に対し、太田は171センチ。リーチの差を埋めようと剣さばきと駆け引きを磨き、五輪のメダル、世界選手権優勝、世界ランキング1位という足跡を残した。大事なのはどこで勝負するかという「戦略」だった。
フットワークの軽さを生かし、フェンシング界の宣伝マンに 画像の拡大 フットワークの軽さを生かし、フェンシング界の宣伝マンに
だが、現役時代の経験を協会運営に生かすためには、ビジネスセンスも必要。その点で太田には恵まれた幾つもの出合いがあった。
12年ロンドン五輪で2大会連続のメダルを獲得した後、しばらく競技から距離を置いた。「正直言って、もうおなかいっぱいだった。コンマ何秒、何センチを突き詰めるよりも、知らない世界を知る方が楽しい」。子どもの頃から好奇心旺盛だった太田は、メダルを名刺代わりにスポーツ界の枠を超えて人脈を広げていく。ことにネット世代の起業家たちとの出合いは刺激に満ちていた。
■起業失敗「ビジョンがなかった」
ライフネット生命保険会長の岩瀬大輔、グリー社長の田中良和、ヤフー常務執行役員コマースカンパニー長の小沢隆生、メディアアーティストの落合陽一といった面々と親交を深めた。世界を相手に勝っても負けてもすべて自分に跳ね返ってくることに、起業家とアスリートの類似性を感じ、「自分もビジネスをやってみたい」という思いが膨らだ。
16年8月のリオ五輪を最後に引退した直後、太田は早速行動に出る。京都・平安高(現龍谷大平安高)フェンシング部の同級生、福岡義久を誘い、会社を立ち上げた。「WIN3」の社名は、生まれ故郷の滋賀に根付く近江商人の経営哲学「三方よし」から取った。商売で売り手と買い手が満足するのは当然のこと。社会に貢献できてこそよい商売という意味だったが、残念ながらその理想には遠く及ばなかった。
「とにかく起業というものをしてみたい一心で、ビジョンがなかった」。食べていくために講演依頼やイベント出演など手っ取り早い仕事を受けるばかりのマネジメント事務所のような業務に終始し、「(いまは)事実上の休眠状態」と太田。「実験は大失敗だった」
■若く、仲間多きリーダー
「雄貴は結果を出す男」とビズリーチ社長の南 画像の拡大 「雄貴は結果を出す男」とビズリーチ社長の南
会社社長から協会会長へ。肩書こそ変わったが、ビジネスマインドに変わりはない。しかも、最初の起業では欠落していたビジョンや使命が、いまははっきりとある。だが、体育会ならではの年功序列が色濃く残るスポーツ界で、33歳のリーダーはあまりに若い。若さは武器にもなるが、安くみられることもある。それを心得てる太田は周囲を味方につける努力を怠らない。常に仲間に囲まれているリーダーだ。
現役時代から親交の厚いビズリーチ社長、南壮一郎もそんな仲間の一人。太田は南に相談し、人件費を抑えられる副業・兼業限定の協会幹部ポストを公募した。経営戦略アナリストやマーケティング責任者など4職種に対し、ひと月足らずで1127人の応募があった。ハンドボールやスキー、車いすラグビーなどの協会もこれに倣い、ビズリーチにとっても大きな成果となった。南は「雄貴は課題設定がとても上手。何を求めているかわかるから、こちらも応援できる。そして、あの実行力。経営者仲間に混じっても何の違和感もない」と評価する。
太田が「僕のメンター」と語るのが、留学支援のアゴス・ジャパン社長の横山匡だ。あまたの学生の面倒を見てきた横山だが「雄貴ほど損得抜きに応援した若者はいないかも」と笑う。「東京五輪招致のプレゼンがそうだったように、彼は語りたい意欲、中身が超一流。あの貪欲さと純粋さが人を動かす」と目を細める。そして、フェンシング協会専務理事の宮脇信介。外資系金融会社を渡り歩いた経歴の持ち主で、会長就任に際して太田が口説き落とし、つえとも柱ともたのむ人物だ。
■ベンチャー感覚で改革急ぐ
「ベンチャースポーツ」。太田が最近、マイナースポーツの代わりに好んで使う言葉だ。小さいがゆえの柔軟性や身軽さ、スピード感を生かして、スポーツ界のフロントランナーとなる――。選手時代のファイトスタイルにも通じる自負を、この言葉に込めているようでもある。同時に「ピンチはチャンス」という経営者の発想も。
太田は東京五輪後のスポーツ界の激変を予見する。国の今年度のスポーツ関連予算は過去最高の350億円。選手強化費は100億円の大台に初めて乗った。企業のスポーツ協賛も増えているが、こうした五輪特需は来年まで。国からの補助金や助成金は減り、企業も見直しに動くだろう。そのとき、競技団体に突きつけられるのは自ら稼ぐ力。いつまでも支援されるスポーツ界ではなく、社会に貢献して利用価値のある存在に変わらないと生き残れない。太田が協会改革を急ぐのもそのためだ。
メディアやSNSを通じて、フェンシングと自身への支持の広がりを日々実感している。ただ、太田は褒められると逆に不安になるという。「もっと賛否両方が欲しい。人は思うようにいきすぎると弱くなります」。持たざる者としての反骨心と必死さが、常に原動力だった。それはこれからもずっと変わらない。