アスリート事業家の冒険(2)

 

北島康介、あえて黒子に 「水泳を一生の仕事に」 

 

 

近ごろはスーツ姿がもっぱらの北島康介が、めずらしく水着姿で現れた。昨年11月、東京辰巳国際水泳場。「KOSUKE KITAJIMA CUP」のメインイベントのレースには、2年半前に競技を退いていた北島も参加した。メドレーリレーをともに泳いだメンバーは、目立って豪華なものだった。

 

■ドリームチームのメドレーリレー

自分の名前を冠した大会を開催している 画像の拡大 自分の名前を冠した大会を開催している

背泳ぎはリオデジャネイロ五輪400メートル個人メドレー金メダルの萩野公介、バタフライは白血病の療養につとめる前の池江璃花子、自由形は100メートル日本記録保持者の中村克。平泳ぎはもちろん北島だ。自由形リレーで挑んできたスポンサーの企業チームを、「競泳ニッポン」のドリームチームは危なげなく退けた。だが北島自身は「だめだね。全然進まない。ショックです」。もう36歳。最近は水泳より、つき合いで始めたゴルフに熱中している。

大会を主催するのは北島が副会長を務める東京都水泳協会。社長として経営権を握る「IMPRINT」(東京・渋谷)がマーケティングなど運営の一端を受けもった。テレビ中継をとりつけ、日本記録には10万円、MVPに50万円、世界記録には100万円の賞金を用意してトップスイマーの意欲をかき立てる一方、子供たちも楽しめるように「くまモン」のデザイナーである水野学にカッパのマスコットをデザインしてもらい、友人のメダリストたちに借りたメダルも展示した。

そうやって陰になり日なたになりして大会を盛り上げた競泳界の大立者が、最終イベントでも体にむち打って一泳ぎしたわけだった。「今んとこ(資金に余裕がなくて)これくらいしかできねえから」。江戸っ子らしく、ことさら伝法な口調をつくる北島だ。

IMPRINTは今年6月で創業11年目、社長専業になって4年目の北島は非常勤を含めて40人近い社員を預かる身。「(選手のころと違って)人のことを考えないといけないから大変。でもやりがいはある。社員と触れあって、外との交友関係も広くなり、選手のときは聞かなくて済ませていたことも、いまは素直に聞きたいと思える」。スイマー北島という個人事業主はもういない。そのことに「これっぽっちも悔いはない」という。

会社の軸となる事業は3つある。11年に始めたスイミングスクール「KITAJIMAQUATICS」。北島と萩野の肖像権管理。そしてフラワーアーティストのニコライ・バーグマンら海外のアーティストらのPRやコンサルティング業である。そのほかジム用トレーニング機器も販売し、トレーナーへの研修などを請け負う関連会社「パフォームベタージャパン」も経営している。

 

■20歳でプロ宣言、個人会社設立

選手だったころ、北島はプロ宣言して個人会社を立ち上げた。当時からほぼ1人で会社を切りまわしていたから、細かい数字を扱うのは苦にならない。「でも今はパンク寸前。仕事が広がりすぎて、すべてに百%コミットできない。人に任せるところは任せて、整理しないとね。やっと会社が安定して社員が頑張ってくれて、(起業して)よかったと思えるようになった。続けるためにも、人のつながりも利益も大事にしたい」

北島にとって水泳は「好きを超越したもの」であり、常に当たり前にそばにあるものだった。日体大在学中に20歳でプロ宣言をしたのも水泳を専業とするため。すでに世界のトップスイマーたちは選手寿命を延ばし、20代後半まで活躍していたが、日本の競泳界は大学卒業後も第一線で競技を続ける環境がなお未整備だった。国内の五輪競技を広く見わたしても、プロとしてスポンサーを募って活動できたのは女子マラソンの有森裕子や高橋尚子ら、五輪で功成り名遂げた選手ばかり。まだ何も成していない青年に関心を示すマネジメント会社はほとんど存在しなかった。ある会社をのぞいては。

その企業、サニーサイドアップ(SSU、東京・渋谷)が出した「03年の世界選手権でメダルをとったら」というマネジメント契約の条件を、北島は世界記録での平泳ぎ2冠でみごとクリアした。04年アテネ五輪も2冠で、日本コカ・コーラというスポンサーもついた。

腕ずくで競技に集中できる環境を手にした北島は、08年北京五輪でまたも2冠。このとき26歳、選手としてキャリアの終盤に差しかかったこのあたりで、別の景色も見てみたいと思うようになる。とりあえず「一度行ってみたかった」という米国、ロサンゼルスに拠点を移した。「自分で自分をコントロールできる人間になりたかった。これまでの置かれている状況で(言われたように)やればいいという状況から、次の五輪を目指すにしても、どうやったら強くなれるかを自分で考えたかった」

 

■「競技以外の何か」を求めて

スポーツ大国の米国といえど、一生困らないほど稼げるオリンピアンは競泳のマイケル・フェルプスら一握り。メダリストの数が多いから、メダルの威光だけでは世を渡れない。だから彼らは選手のうちから勉強するなり専門スキルを磨くなりして引退後に備えている。日本のスポーツ界でも近ごろやっと「セカンドキャリア」という言葉が定着したが、北島はそんな言葉もない時代にいち早く無意識に「競技以外の何か」を求めていたという。

アスリートの知名度はもろ刃の剣だ。ビジネスは素人だから、誘いはいろいろあっても組む人を間違えて失敗する例は枚挙にいとまがない。その点、北島には「僕はとても恵まれていた」と思わせてくれるパートナーがいた。IMPRINTで共同社長を務める大久保のり子。北米と欧州の暮らしが長い大久保は、米公共放送の東京特派員を務めた後、格闘技関係やSSUでマネジメントに携わった。北島とはSSUで面識を得たが、08年秋に退職してからはゆっくり過ごしていた。所用で米シアトルにいたところ、北島に西海岸の案内を頼まれた。

「それまでほとんど話したことがなかった。そもそも彼ってあまり話さないでしょう。タイミングが合ったのね」と大久保は振りかえる。案内の道中、独立構想を北島に聞かされてアドバイスはしたものの、それだけだった。ややあって共通の知り合いが「北島くん、大変そうだよ」。ちょうどアラフォー、次は一生の仕事をしたいと大久保も思っていた。北島を手伝いながら、自分はやりたかった海外ビジネス、PR業をする。パートナーになる以上、北島にも業務全般を把握してもらう。そういう約束で09年6月、IMPRINTを設立した。

当面の社業は北島のマネジメントのみ。「なのに4人も社員を抱えて、何を考えていたんだろう」と大久保は笑う。「引退したとき、居場所となるところがほしかった」という北島に具体的な構想はなかったようだ。勤め人になる気もなければ、指導者も「向いてないと思ったし」。すでに現役選手やOBが半ばタレント、文化人扱いでメディアの露出を増やしていたが、興味のないことまで仕事にしたくない。大久保もまた「浮き沈みのある世界は怖い。そこに頼らないビジネスをつくっていくことに興味があった」。収入のために軸足をメディアに置くと、一生の仕事場としたいプールから距離をとらざるをえなくなるかもしれない。どうするか……。

 

■プール借りてスクール事業

そんなとき、中学時代からの親友、細川大輔が北島に声をかけてきた。07年世界選手権銀メダリストの細川は引退後、プールを借りて水泳教室を開き、顧客網を広げていた。「康介、一緒にやらないか」という細川の誘いに応じる形で、11年、スイミングスクール事業が始まった。

北島が選手を退くまでの7年間、経営は7、8割がた、大久保に任せきりだった。いまは社長2人の負担が半分ずつ。スクール経営を受けもつ北島は、ほかにも2年前にプロ宣言した萩野のために、億単位ともいわれるブリヂストンとの所属スポンサー契約を勝ちとったのだから、交渉術は相当なもの。

スクールのほうは、自前のプールがないのでフィットネスクラブや公営プールの施設を借りている。マスターズ向けに始めた教室はフィン水泳、トライアスロンなどのニーズに応じてクラスの数も種類も増えていった。会員は現在約800人。選手にはならないが、塾通いをしながら水泳を楽しみたい――。そんな子ども向けのクラスもある。

チーフインストラクターは細川に任せて、経営者の北島は黒子に徹する。自分がプールサイドにいれば人が集まるのはわかっているが、継続して水泳に興味を持ち、スクールに参加してもらうには黒子でいた方がいいと考える。「会員の求めるものが10年前と違う。この先生に教わりたい、いいものを教わりたい、などと好みが細分化していて、スクールを大きくすればいいものでもない」

プール探しも一苦労だ。公営プールは使い勝手が悪く、昼間はガラガラのところもある。「もうちっと柔軟になってくれりゃなあ」。プール所有の大手と違って、講師を派遣するスタイルだから人材が命となる。「優秀な人材を育てて、ここでやりたいと思ってもらえるクラブにしないと。インストラクターの人気に選手時代の実績とか関係ないし」。インストラクターたちには水に関する資格取得を奨励し、北島がかつて拠点にした南カリフォルニア大へも研修に送りだす。

 

■ぼやきは明るく、じめじめしない

経営戦略と水泳の戦術はまるで違う。「こうしてほしい、と思っても、そのとおりに人は動かない。なかなか伝わらない」とは人使いに悩む社長のぼやき。頭痛の種はほかにもある。メンタル面の不調のため萩野が4月上旬の日本選手権を欠場、世界選手権にも出られない。「マネジメント不行き届き」と言われかねない事態になっている。

「頭痛いっす。でも大変じゃないですよ。(萩野は)自分が一番輝く、頑張れる環境を自分でつくっていかないといけないし、周りが(こうしろと)言ってもしょうがない」。毎日何千メートルも黙々と泳ぐ練習に耐えてきた北島は我慢強く、難局でも明るさを失わず、ぼやいていてもじめじめしたところがない。リオ五輪で金メダルに輝いた萩野の気持ちもわかるのだろう。北島自身、アテネ五輪の後は燃え尽きて、真剣に泳ぐ気力がわいてこなかった時期がある。

萩野の休養中の関係者への説明、マスコミの相手は自分の仕事。「競技者として悩めるってチョー幸せだと思うけどね。こっちは(萩野が挫折からはい上がるという)夢を持たせてもらえますよ」

北島のプロ宣言後、競技を問わずアスリートたちが当たり前のようにプロを名乗る時代がやってきた。だが、自分が多くのものをささげた競技によって暮らしを立てられる者は多くない。選手として輝ける時間は短く、引退後の時間は長い。萩野のようにプロになってから悩み、立ち止まる選手もいる。彼ら後輩スイマーを支え、子どもからお年寄りまで楽しく泳げる教室を営み、「子どもたちが出場したいと思ってくれるように」と自分の名を冠した大会を開催する。それらすべてが「水泳をずっと自分の仕事に」と願う北島の、金メダル以上に達成困難な挑戦なのである。

 

 

 

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