エコノミクス トレンド


文化と経済深まる相互作用

政策や経営の重要要素に


柳川範之 東大教授

ポイント

○ 経済学でも文化的要因の影響の研究進む

○ 金銭的誘因で人々動かせぬ場合に効果も

○ 政策や経営にも文化や慣習を変え得る力



 技術革新などにより、経済には大きな構造変化のうねりが押し寄せている。このような中では、通常はあまり焦点があたらなかった、文化と経済との関係に改めて注目する意義が生じている。

 それは文化や慣習など、さまざまな行動規範が人々の意思決定や行動に意外に大きな影響を与えていることが認識され、経済政策の処方籤や企業戦略を考えるうえで重要な要素になってきていること、そして、そう簡単には変化しないと考えられてきた文化や慣習が、グローバル化と技術革新によって変わり得る、あるいは変え得る存在になってきたことからである。



 伝統的な経済学の世界では、人々は自己の利益が最大になるよう行動するいわゆる合理的な経済主体が想定されていて、文化や慣習が入り込む余地がほとんどなかった。それは単にそのような理論モデルしか構築できなかったというよりは、すべてが文化のせいと片付けられろことを恐れ、特に経済政策の議論では、そのような要素を意図的に排除してきた面も強い。

 たとえば経済発展をしない理由は、その国の文化のせいだと単純に結論づけたのでは、単なるブラックボックスに責任を押し付けろことになりかねない。あるいは、日本人は銀行へ預金する傾向が強く、それがリスクマネーに資金が回らない要因だともいわれる。だが、なぜそうなのかについて、それが日本の文化だからと安易に結論づけてしまうと、本来なら改善すべき制度的障害があっても、それがおろそかになってしまう。

 しかし近年、実験経済学や行動経済学の知見が蓄積され、どのような形で人々の行動が文化的要因などに左右されるのかが分かってきた。行動変化はこうだと単純に図式化できるほどではないものの、そこに一定の規則性や法則性も確認できるようになり、人々の行動予測として、そのような文化的要因を考慮に入れることが科学的にできろようになった面が大きい。

 学問的側面だけではなく、現実経済でも、人々が文化の違いや変化を意識する局面が増えてきた。たとえばグローバル化によって多様な宗教や文化をもつ人々が日本にも滞在するようになり、価値観の違いや何を大事にして行動するかの違いを、目の当たりにする機会が増えてきた。
 また社会全体だけではなく、企業内にも企業文化と呼ばれるものがあり、人々の行動を規律づけたり規定したりする面があることはよ知られている。場合によっては賃金の高低以上に、実は企業文化が行動を左右している面が強いことも、さまざまな調査・研究で分かってきた。その一方、技術革新や高齢化によって社内文化が大きく変化しつつあると感じる人も増えている。



 通常の意思決定理論の通りに行動しないパターンとしては、変化をしたほうが良いのに現状にとどまってしまう、いわゆる現状維持バイアス(ゆがみ)がかかる場合と、行動規範に基づいて、通常とは違う行動をとってしまう場合に大別できる。ただし、このような行動選択がすべて非合理的だと結論づけるのは、やや短絡的だ。たとえば社内での評判の変化を考慮して、行動を変えなかった可能性なども考えられるからだ

 いずれにしても人々の行動や経済活動は、文化や慣習がどうなっているかに依存している場合がかなりあり、政策や企業経営を考える際には、それとどう向き合うかを考える必要がある。

 経済政策の歴史からいえば、人々の行動を引き起こすにはインセンティブ(誘因)が重要であり、特に金銭的なインセンティブの設計が大きなポイントとなってきた。たとえば公共料金の設定では、努力をすればある程度の金銭的リターンが得られるような規制価格体系にするのはその典型だ。けれども、文化や慣習が重要だとすると、単に金銭的インセンティブを与えるだけでは、人々が予想通りに動くとは限らない。

 この点で近年、制作面で注目されているものに、ナッジと呼ばれるものがある。小さく押すという意味合いの言葉で、上記の現状維持バイアスが強く働いて人々の行動がなかなか変わらない場合に、ちょつとした工夫によって変化を促そうというものだ。

 たとえば米国では、基本が確定拠出年金への非加入だったのを加入にし、手続きをすれば非加入になるとしたことで、加入率を増やすことができた。英国では納税の督促状に近隣住民の期日内納付率を明記することで、納税を増やすのに成功したという実例も出てきている。日本でも、健康寿命を延ばすための政策として、がん検診の促進などにナッジが活用できろのではという議論がされている。

 もちろんナッジがうまく働く場合ばかりではないし、価値判断が分かれるような事象について、特定の方向に強く誘導することには課題がある。しかし大きな財政支出をする必要がないという点には魅力があり、社会保障問題だけではなく、キャッシュレス化の促進や、インフラ整備における民間資金活用など、なかなか行動変化を起こせていない政策分野で、工夫して活用する余地はあるだろう。



 人々が文化や慣習に行動が左右される面が大きいとすれば、ある程度、文化的構造と整合的なルールや規制を用意する必要が出てくる。文化的構造を抜きにして政策を構築すると、場合によっては想定外の逆の政策効果を呼んでしまうこともあるからだ。

 たとえば、近年はビッグデー夕が大きなビジネスチャンスをもたらすという議論が盛んだが、その取り扱いを巡つて個人情報の保護はどうあるべきかが話題になっている。この場合には、各国の政策はやはりそれぞれの国の文化的背景を無視してルールをつくることはできず、そのためそれぞれの国で、何を皆が重視しているかを考えながらルール形成がされている。

 ただし、文化的要因が重要だからといって、それを完全に所与のものとして扱つてよいかは考えるべき点だ。そもそも文化や慣習は時代と共に変化し得るし、今は特に大きく変わろうとしている時代だ。文化や慣習、社会のムードといったものに対していかに働きかけるかという視点が、今後の政策や企業経営では重要になってくるだるう。

 


 たとえば東京証券取引所は、コーポレートガバナンス(企業統治)報告書に顧問や相談役の詳細を記す欄を加え、氏名や報酬などの開示を促しているが、このようなルールを通じて企業内の文化やヒエラルキー(階層)の構造を変化させる効果を期待している面が強いだうう。また長時間労働規制などの労働法制の改革も、単に働くルールを変えたというよりは、長時間労働に関する企業内文化や社会全体の意識を変えつつあり、それは政策がある程度意図したものではあるだろう。


 つまり政策や企業戦略には、文化や慣習によって規定されていく側面と、それらに働きかけていく側面の両方があり、その相互作用を切に考慮に入れることが、これからの政策や経営においては重要になる(図参照)。もちろん、文化は経済のためだけに存在するわけではない。技術革新などによって産業・社会構造が大きく変わうていくなか、どのような社会を今後構築していくべきか。政策の実行にあたっては、このような大きな構想が求められているともいえよう。

 

 

 

 

 

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