テニス進化論(4)

 

錦織圭 体格の差克服、米の「囚人キャンプ」

 

 

 錦織圭(日清食品)ほど、日本のテニス界に刺激を与えた選手はいないだろう。身長178センチは、世界はもちろん、日本選手の中でもさほど大きくない。日本テニス協会に残る12歳前後の時期の体力データも決して高くなく、彼を上回る選手はいくらでもいた。そんな選手が世界のトップ10に入って存在感を見せているのだから、周囲に与える影響は大きい。

 そんな親近感がよかったか。錦織の登場以降、それに引っ張られるように、5歳上の添田豪、1歳年長の伊藤竜馬、杉田祐一らが相次いでトップ100に入り、年下のダニエル太郎、西岡良仁と杉田がツアー優勝を手にした。錦織がプロデビューして13年目となった2019年、全豪オープンには3人が予選なしで本戦に出場した。常に先行していた女子が大坂なおみ(日清食品)1人だけだったのにである。

 1998年にジュニア世代の強化プログラム「修造チャレンジ」を立ち上げた松岡修造(「『僕は貴公子じゃない』松岡修造、熱くしたたかに」参照)の目標は「僕が死ぬまでに、世界トップ100に4〜5人が入り、ウィンブルドン選手権のセンターコートに日本人が立つこと」だった。既に2つとも実現している。現在の男子の隆盛ぶりは松岡も想像していなかったということになる。

 島根県松江市に生まれた錦織は、父・清志がハワイ土産に買ってきた子供用ラケットを手にして、5歳でテニスを始めた。「ファミリーでテニスができたら楽しいな」という程度の軽い気持ちで手ほどきを始めた清志はすぐに我が子の筋の良さに驚き、地元のグリーンテニススクールに入会させた。

 「的を狙わせれば、フルスイングでもバカバカ当てていた。ボールの高低、緩急も自由に表現できたし、特にゲームセンスがよかった」と、同スクールヘッドコーチの柏井正樹は言う。松江では歯応えのある同年代の選手がおらず、大人が相手をするようになったのも錦織のさまざまな頭脳プレーに磨きをかけることになった。

 力の差は当初から歴然。全国小学生大会で優勝したときは、相手がつなぐタイプなら、それに合わせつつ、浅いボールが来たら迷わず強打。ハードヒッターだったらガンガン打ち合いながらカウンターでポイントを奪う。「相手の子が嫌になっちゃうような」(柏井)勝ちっぷりだった。

 ゲームセンスだけでなく、ボールへの感覚も抜群。いまでもテニスボールでやるリフティングはまさに自由自在、ちょっとしたショーのようだ。どちらも教えようとして教えられるものではない。松岡が「修造チャレンジ」で出会ったのは12歳のころ。コートの外では言いたいことも言えない内気な少年は、「僕が生きている間には出会わないだろうというような才能」(松岡)の持ち主だった。

 ただ、不安はあった。自分の意見を言えないと世界ではやっていけない。松岡は「テニス(のプレー)はいうことないけれど、体が小さくて弱かったし、表現力という意味でテニス以外のところでどこまでいけるんだろうという思いはあった。だから修造チャレンジでは相当プレッシャーを与えた」と振り返る。精神面を鍛えるため、明らかに格上の高校生と試合をさせ、みんなの前で英語で自己紹介させた。錦織にも「怖かった記憶」として残っている厳しさだった。

 この時点で錦織はプロになると決めていた。「正直、(同世代では)一番うまかったから、テニスで生きていこうと思っていた」。小学生のころ、練習相手は大学生だった。そんな島根にいてはプロになれないのでは? という悲壮感に近い思いもあった。だから、米国留学の話が来ると、二つ返事で飛びついた。清志にしても「島根のテニス環境が悪すぎたから、親も吹っ切れたよね」。島根から子供を一人で送り出すとなれば、東京もフロリダもかなりの覚悟がいることに変わりはない。むしろ言葉が通じる分、誘惑の多い東京の方が心配な面もあったらしい。米国なら、途中でくじけても、英語くらいは話せるようになって帰ってくるだろう、くらいに考えて送り出した。

 留学先のIMGアカデミーは世界中にある全寮制テニスアカデミーの草分け的存在だ。創設者のニック・ボロテリー(87)は「オレは7回離婚して8回結婚したから、お金がかかるんだよ」と、いまだ現役コーチを続ける理由をこう語る。こんなエネルギッシュな個性の持ち主だからこそ、会った人を皆、元気にする。「練習を10分、15分見ただけで技術的に足りないところ、直すべきところを見抜く目が誰よりもある」と錦織も認める存在だ。アンドレ・アガシ、モニカ・セレシュ(ともに米国)、マリア・シャラポワ(ロシア)……。多くのスターがここから巣立っていった。

 ――戦いに必要なものは全てここにある。さあ、生き残りをかけて戦え――。それが、世界中から若者たちが集うIMGアカデミーだ。敷地に入るとほどなく、数え切れないほどのテニスコートが目に飛び込んでくる。もちろんジムもプールもカフェテリアもあり、今も錦織が活動の拠点にするほどテニス環境は文句なしだ。が、トマト畑の跡地に作ったというだけあって、一歩外に出ると、だだっ広い道路だけの景色が広がる。「まるで囚人キャンプ」と、14歳だったアガシはこぼしたという。

 渡米当時13歳、英語も話せなかった錦織にはつらい日々だった。日本にいたころのような礼儀正しい選手は少数派。ルームメートの大きな選手にどやされ、共有の冷蔵庫に名前を書いて入れておいた食料も「おまえのものはオレのもの、というのが普通な感じだった」。これもテニスの一部だとばかり、小柄な錦織はよく威嚇された。審判のいない試合では、明らかなアウトでも、相手が「インだ」とクレームをつけてくることもしばしば。泣きながら試合をしたことも何度もあったという。プロになりたての頃から、「客席のあそこが気になるからなんとかしてほしい」など、審判にきちんと意見を言えたのは、ここで鍛えられたからだろう。

 練習は厳格だった。「強い選手より見ていて楽しい選手が好き」だった錦織には、自分のプレーでも「こんなあり得ないショットが入ったら楽しいだろうな」と、面白さを追求するようなところがあった。米国に着いた頃は「かなりムチャなプレーをしていた」から、「ミスするな」と繰り返し言われ、練習中に気合が入っていないと懲罰としてランニングまで課された。日本では断トツだったからそれでも勝てたし、自分に強く言う人はいなかった。だが自分が楽しいプレーばかりでは世界では通用しない。決めにいかず、次のチャンスを待つ忍耐も必要だと教えられた。

 一方、長所はどんどん伸ばしてくれた。特にフォアハンドは徹底的に鍛えられた。試合中のある状況を設定した反復練習では、「どう打開していくか?」という課題が与えられ、自分でいくつもの解を見つけねばならない。頭を使った練習で、錦織のもともとあったゲームセンスはさらに磨かれた。

 IMGアカデミーにはトッププロが練習に立ち寄ることもある。錦織も、ロジャー・フェデラー(スイス)と1週間打たせてもらった。「『世界ナンバー1のボールを打ってくる』という感覚があったし、重くて速いいろんなショットを打ってきた」と錦織。トップと向き合ったことで、自分の目指す場所が分かる。感覚が鋭敏な錦織には「すごいいい経験だった」。

 隔絶された場所でのシビアな競争で、精神的に参ってしまう選手も少なくない。それでも錦織は「テニスしかないと思っていたし、本当にプロになりたかったから」耐えられた。ライバルが大勢いて、いろんなタイプの選手がいる環境は刺激的で、もまれることで強くなり、次へのモチベーションになった。うじうじと引きずることなく、「いいことも悪いこともすぐ忘れる」性格もよかった。

 錦織のように全額奨学金で通う選手は1年ごとにふるい落とされていく。錦織と一緒に渡米した2人は途中で日本に帰っていった。1人残った錦織は渡米4年目の16歳で全仏ジュニアのダブルス優勝をつかんだ。気がつけばアカデミーの男子のイチオシ選手になっていた。

 もともとがスポーツマネジメント会社IMGの傘下のアカデミーである。そういう立場になった錦織を様々な形で売り込んでくれた。当時IMG所属だったフェデラーが参加するイベントで打ち合う相手に呼ばれ、四大大会でも、やはりIMG所属のラファエル・ナダル(スペイン)の練習相手に指名された。

 07年秋にはAIGジャパン・オープン(現楽天ジャパン・オープン)の主催者推薦で華々しくプロデビュー。ソニー所属も決まった。半年もたたないうちに、18歳でツアー初優勝。1年後には世界ランキングトップ100入りを果たした。その後はすべての四大大会で8強入りし、14年全米オープンでは準優勝。さらに16年リオデジャネイロ五輪銅メダル、世界ランクは最高4位。日本人男子初めてのポジションに次々と到達し、テニスを知らない人にもその世界の奥深さを見せてきた。

 そんな錦織も29歳。右手首をはじめ、数々の故障を経験し、プロ13年目を迎えてそのプレーは研究されつくしている。パワーがないのを見透かされて体重の乗ったボールを打ち込まれては疲弊させられ、錦織のサービスゲームではあからさまにリターンエースを狙ってくる。第1セットはパワーで圧倒されて先取される試合も多くなってきた。錦織は試合中の大半を「負けるかも」と思っているそうで、「最悪の事態を考えると落ち着くんですかね」。そこから焦らずに失ったセットから得た情報を分析し、1球ずつコツコツ相手の弱点を攻めて逆転していく姿は職人技の域だ。だが、そうした戦い方は四大大会の終盤戦での消耗にもつながっている。

 けがによる浮き沈みがありながらほぼ5年間、世界のトップ10を維持できているのは、その高い技術と強い精神力、そして幼いころから見せてきた「(相手を)おちょくってやれ」という遊び心を忘れていないからだろう。「テニスって相手によって決まるボールが違う。相手を翻弄したり、こっちが翻弄されたり。そんな難しさがあるし、心理戦の面もあったり。テニスは面白いんです」

 最近は後輩たちをよく食事に誘うようになった。大坂なおみと親しく話すようになったのも18年マドリード・オープン前の食事会がきっかけだった。「特に意識はしていないけれど……。男女関係なく、純粋に強くなってほしい気持ちがある。そういう機会があれば、自分の経験やアドバイスも伝えられるし、選手の変化も分かるから」。駆け出しのころ、日本選手と食事をしたくても同じ会場には自分一人ということが大半だった。案外、錦織が一番、後輩との食事を心強く思っているのかもしれない。

 

 

 

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