テニス進化論(3) 

 

「僕は貴公子じゃない」松岡修造、熱くしたたかに

 

 

 今や「熱い応援キャラ」でお茶の間に知られる松岡修造(51)は、日本テニス史に名を刻む選手であった。身長188センチと、大型化が進んだ現在のテニス界でも見劣りしない体格を生かしたビッグサーブを武器に、世界ランキングは最高46位。1992年に日本人として初めて男子プロテニス協会(ATP)ツアーで優勝。95年にはウィンブルドン選手権でベスト8に勝ち上がり、生涯にわたって様々な特権が得られる「ラスト8クラブ」入りを果たした。

 父は東宝の社長、母は元タカラジェンヌ、幼稚舎からの慶応出身……。華やかな生い立ちから、現役時代は「貴公子」といわれた。本人いわく、「本来の僕は違う」。1年のうち10カ月は海外遠征の旅ガラス。海外のテニス情報など入ってこない時代に「試合にたくさん勝ったわけでもないから」、日常的な露出が少なかったが故に生まれたイメージだった。「引退後、(素顔との)ギャップをテレビを通じて伝えることが武器だって分かっていました」。1年間、バラエティー番組で素の自分を見せ、自分のやりたいことを探り、次第に「人に伝える仕事」にシフトしていった。

 熱さとともに、こうしたしたたかさも松岡のもう一つの顔だ。仕事現場では物静かで、ジーっと資料を読んでいる姿も珍しくない。現役時代のテニスも「戦略派」だった。今のようにパソコンをクリックしただけで得られるデータはなかったから、試合会場ではコーチや周りの選手から対戦相手の情報を集めまくり、弱点を探った。「その点は抜けていましたね。今の仕事にも役立っているけれど、相手心理を読むのはうまかったと思う」。

 幼い頃はぽっちゃり型だった。打ち方もユニークで、練習を見て松岡を「うまい」という人は一人もいなかった。元日本代表の父には、スコアシートを見ただけで「おまえ、やめろ」と言われたこともある。それでも前に進めたのは、「テニスをやりたかったから。もう一つはいくら素質がなくても試合には勝っていたから」。練習でうまくなくても、実戦で強い。スポーツの世界ではこれが大きい。

 最初に取り組んだスポーツは水泳だった。筋は良かったが、練習がきつかった。「タイムを競う競技で、あまり自分を表現できるスポーツじゃない」とも当時は思っていた。その点でテニスは違った。相手との駆け引きがあり、ストローク、ボレー、フォアハンドにバックと、個性を表現できる要素が大きい。小学5年でテニス1本に絞った。それでも「当時、将来テニス選手になりたいと思う子はほとんどいなかった。(自分も)今の子たちの半分ほども本気じゃなかったと思う」。

 折しも70年代はテニスブーム。現在のATPツアー・ファイナルの第1回大会が東京で開かれ、ジャパン・オープン(現楽天ジャパン・オープン)が始まった。漫画「エースをねらえ!」の連載もあった。そして日本独自のプロ大会もスタート。世界ランキングに反映されないこの大会が国内のブームに拍車をかける一方、ジョン・マッケンロー、ジミー・コナーズ(共に米国)、ビヨン・ボルグ(スウェーデン)らが席巻する世界に挑もうとする日本選手は少なく、世界でプレーするイメージを抱くのは当時の子供には難しかった。

 松岡もテニスで結果を出し、大学に進むつもりだった。高校2年で慶応高からテニスの名門、福岡・柳川高校に転校した。マージャンにはまり、練習に身が入らなくなったのが一因だった。「あまりに心が弱いから、自分ではきつい選択ができない。(厳しい練習で知られる)柳川なら強制的にやらされるから。楽(な決断)をしたと思っています」。東京で通っていた桜田倶楽部は日本のトップクラブで、世界の情報も入ってくる。「東京でやっていた方がテニスはもっとうまくなったかもしれないですね」と話す。

 「これぞ体育会」といった雰囲気の柳川は脱走者が出るほど、寮生活が厳しかった。だがそれこそ、松岡が望んだ生活だった。ただ、したたかな松岡が当時の根性論をやすやすと受け入れるようなこともなかった。「正しい方向へ頑張る根性論はOK。でも何も考えないで、気持ちだけでできるわけないだろって」。柳川への転校を含め、自分で考える自立心は持っていた。「小さい頃から、自分なりに考える力はあったと思う」。自分はこうやった方が強くなると思えば、先生の言うことは無視。同校伝統のグリップに変えるように言われた時は、わざとボールをネットにひっかけて自分には合わないとアピールした。

 転校後すぐ、試合を勝ち抜いて全仏オープンとウィンブルドン選手権のジュニアを含む海外遠征のメンバーに選ばれた。が、テニス部にとっては高校総体が一番の目標だ。松岡は遠征を辞退してインターハイに出場し、3冠を手にした。しかし3年生になって再び遠征メンバーに選ばれると、悩んだ末に休学を選んだ。この遠征の後ボブ・ブレットと出会う。ボリス・ベッカー(ドイツ)やゴラン・イワニセビッチ、マリン・チリッチ(いずれもクロアチア)らを育てた名伯楽だ。彼のすすめで米国に渡ることを決意。米国の高校に転校し、卒業後プロの道に入った。「大学に行く」との約束を反故にした松岡に、実家からの資金的援助は事実上なかったが、決断に迷いはなかった。

 30年前はツアーに出るまでが今よりも大変だった。まずサテライトという5週間の下部大会に出場してポイントを稼ぐ。サテライトの予選は7試合連続で勝たねばならなかった。勝ち上がっていざツアーに行けば日本選手どころか、アジア選手もほとんどいなかった。ほかに何人も選手を抱えているブレットも、松岡の試合に常に同行するわけではなかった。「全部、自分で自立してやらないといけなかった。その辺が日本人には向いていない競技なんですよね」

 試合会場に着いたらまずは練習相手探しだ。米国や欧州の選手はジュニア時代からの顔見知りが多く、ロッカールームにはすでにコミュニティーができあがっている。新参者の相手をしてくれる選手は容易に見つからなかった。予選落ちするとさらに厳しい。次戦の会場に移動するまで練習したいが、練習コートは試合を控えた選手しか使えない。本戦に出る人に練習相手に選んでもらうしかないが、予選落ちした無名のアジア選手と練習してくれる人はまずいなかった。断られると分かっていて、それでも頭を下げ続けるのは苦痛でしかない。「ここで踏ん張れたのが大きかった。人間だから、何度もお願いしたら名前を覚えてくれるし、何かのきっかけでチャンスはくると思っていた。何より僕よりうまい人ばかりだから、(練習できなくても)一緒にいるだけで楽しかった」

 世界を股にかけるテニスのツアーは移動も大変だ。インターネット予約などない時代。試合会場で聞いて回り、一番安い旅行会社を探した。こうした雑務をすべて自分で、しかも英語でこなさねばならない。これが1年のうち10カ月続くと思うと、プレーする前に日本人は気力が萎えてしまう。80年代は日本ツアーがまだ元気なころだから、苦労を承知で海外へ挑戦しようとする男子選手は少なかった。

 対照的に、井上悦子ら女子はコツコツと海外で結果を積み重ねた。90年代には伊達公子を筆頭に黄金期を迎える。背景には、女性の社会進出の機会が少なかった、当時の日本の事情がある。「国内には女子の大会が少なく、プロになりたかったら海外に行くしかなかった。女性アスリートは引退したら結婚、という時代でもあったから、(それまでは存分にやろうと割り切って)大胆に海外に出て行けた。男子は、家族の生活もあるから、どうしても慎重になったと思う」と、日本テニス協会副会長の渡辺康二は話す。

 孤軍奮闘だった現役時代を生き生きと語る松岡も、ストレスは相当あったはずだ。まだトレーニング法も栄養学もスポーツ界に浸透しておらず、「プロになろうとした時までの基礎トレーニングがなさすぎた」。そればかりが原因ではなかろうが、ケガが多かった。ランキングがトップ100を切り、さあこれからという時に膝、足首と相次いで故障した。ピート・サンプラス(米国)、イワニセビッチやステファン・エドバーグ(スウェーデン)らを倒し世界46位まで上がった後には伝染性単核球症という、大人には珍しい感染症にもかかった。「ガラスの心を持っていた選手だと思う。一言で言えば、ムチャクチャ弱かった。テニスは好きだし、一生懸命やっていた。努力もものすごいしたと思う。ただ、大事なところで負けたり、ケガをしたり、病気をしたり、弱い人なんですよ」。いま、自身で振り返る選手・松岡修造である。

 こうした苦労はいまの活動に生きている。松岡が特に育成に力を注いでいるのは、自分の歩んできた経験をそのまま伝えられるからだ。

 90年代はジュニアサーキットの仕組みもよく分かっていない日本人選手、コーチが少なくなかった。一から英語で調べる大変さ、トレーニングが不十分なままでプロになったときの苦労を身をもって知っている松岡以外に、これを教えられる適任者はいなかったろう。98年、日本テニス協会と協力して「修造チャレンジ」を立ち上げた。

 なぜケガをするのか、どうすればそれを防げるのか。あいさつができる程度の英語力、自立心の大切さ、栄養学の知識……。プロ選手に求められる様々な要素をプロのトレーナーや栄養士を招いて実践的に教える。全国から選抜した選手を12歳以下、14歳以下、18歳以下全世代の3つのカテゴリーに分けて年3〜4回、合宿を行う。錦織圭(日清食品)を含めてこれまでのべ281人が参加している。

 いまは、様々な情報が簡単に手に入るし、錦織の登場以降は「世界に行くにはこうすればいい」といった道筋が見え、目標が立てやすくなった。ナショナル・トレーニングセンター(東京都北区)という強化拠点もある。それでも刺激を与える場として「修造チャレンジ」の意義はなお大きい。いまもなお松岡は主体となって関わり続け、恩師ブレットも発足当初から協力してくれている。基礎トレーニング、正しい基本技術習得の大切さは、普段クラブのコーチから言われていることだが、「ナダルもこういう練習をしているよ」といった具体的な指導を受ければ子供たちも感じ方が違うはずだからだ。合宿のハイライトとなる毎夕食後のミーティングは2時間にも及ぶという。

 強い選手を生み出し続けるには今後、テニス人口を増やすことが必要だ。そこで松岡の存在が生きてくる。「(一般への)普及は絶対にできる自信があります、僕のキャラなら」。将来、誰も思いつかないような斬新な方法でテニスの面白さを伝え、多くの人にラケットを握らせてしまう気がする。

 

 

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