テニス進化論(2)

 

伊達公子 求め続けた「プロとは何か」

 

 

 2017年9月、雨上がりの夕焼けのなか、伊達公子は現役最終戦を有明テニスの森公園で終えた。スコアは0―6、0―6。16年に手術した膝に痛みは残り、肩痛も発症。見ている方がつらくなるほど動けなかった。

 

■現役最終戦も「勝たないと」

 試合後のセレモニーではその功績をたたえる多くのメッセージが披露された。そのなかで爆笑を誘ったのが高校の後輩、浅越しのぶの言葉。そこには伊達公子という人物がわかりやすく表れていた。

 「第2セットの0―5で(コートに)コーチを呼んだでしょ。解説をやっていると(コーチがつけた)マイクが拾う声を聞けて……。伊達さんが『1ゲームとりたい』と言った時、涙でてきた。まだとりたいのって」

 妥協することなく、目標に向かって一直線。そのために必要だと思うことは何でもやる。「プロとして勝たないといけない。そこそこでいいと思ってプロになったわけじゃないから。自分の目標を達成するために何が必要か。(それを外に)言わない理由の方が私には見えづらいという考え」

 目標達成にそれだけ真剣、ということ。そこから生まれる周囲との摩擦も、バッシングも割り切って受け止めた。「テニスは個人スポーツ。勝負の世界だから、結局は勝つためだから、という結論に常に落ち着いていた」。多くの日本人はわかっていてもそこまでできない。だからこそ、強い伊達にみんながしびれ、ライバルである選手たちは畏敬の念を抱いた。

 

 プロになるまでの道のりはいたって平凡だ。スポーツ好きの両親が通っていたテニスクラブで初めてラケットを握ったのが6歳。強豪の園田学園高(兵庫県)に進学し、部活動の傍ら、プロコーチの小浦猛志の指導も受け、才能が開花した。高3の88年高校総体ではシングルス、ダブルス、団体の3冠を獲得し、卒業後プロとなった。

 

■同世代を追いかけ、ライジングショットに活路

 ティーンエイジャーの燃え尽き症候群の問題が顕在化し、94年には女子テニス協会(WTA)が18歳になる前のツアー出場に制限を設けた時代だから、18歳でのスタートは決して早くなかった。同じ89年組のモニカ・セレシュ(当時ユーゴスラビア)は15歳。シュテフィ・グラフ(ドイツ)は82年に13歳でプロとなり、88年には四大大会とソウル五輪をすべて制してゴールデンスラムを達成し、伊達と同世代がすでに世界を席巻していた。

 部活が中心で海外遠征は数えるほどしか経験がなかった伊達にはプロの世界を想像できなかった。あったのは「小浦さんから聞かされていた『プロとはなんぞや』という心得。そこだけは、今のジュニアより聞かされていたと思う」。その言葉を胸に、まずは四大大会に予選なしで出場できる世界ランキング100位以内、そして井上悦子が88年に記録した日本女子最高位となる26位を追い越すことを目指した。

 身長163センチは日本では標準でも、世界では小さくて細身。プロ1年目から四大大会に出場したものの、さらにその先を見据えると、欧米人との筋肉の質、持って生まれたフィジカルの差を痛感させられた。ではその中でどう生き残るか? 今更背は伸びないし、トレーニングで欧米人のような筋力はつかない。「自分を補うためのものが必要と感じた結果が、ライジングショットだった」。動物が生存のために必要な機能を伸ばすのに似ている。

 バウンド直後のボールの上がりはなをたたくライジングショットを打つ選手はほかにもいるが、伊達のそれはテイクバックが非常に小さい。返球が際だって速く、相手が反応する時間を奪う。その後の対応には、打った本人も速く動かなければいけないし、相手のパワーをまともに受けることにもなるが、伊達は高校時代から、小浦の下で、当時としては珍しい科学的なパワー系トレーニングを重ね下半身を鍛えていた。テニスに限らずスポーツは何でもそこそこできるという運動神経の持ち主で、ボールへの感覚もいい。「足はもともと速かった。ジュニアの時から小浦さんには(プレーの)予測というものをたたき込まれていたので、展開の中での予測は人よりたけていたと思う。だからこそライジングを始めた時すぐに対応できたんでしょうね」。大きく停滞するような時期もなく、ライジングはすぐに伊達の武器となった。

 現在のテニスほどパワー全盛でなく、当時はそれぞれの個性を競い合うような時代だった。バックハンドはほぼスライスのみで強烈なフォアでガンガン攻め込むグラフ、フォアもバックも両手打ちの強打が持ち味のセレシュ、ゴムまりのようなフットワークでコート全体をカバーするアランチャ・サンチェス(スペイン)……。相手が想定する間合いを奪う伊達の鋭いライジングショットも彼女たちに対抗する唯一無二の個性だった。

 

■トップ10入りもコート外でストレス

 92年に当初掲げた目標をクリアし、94年には日本人女子選手初のトップ10入り。その伊達を追うように、沢松奈生子、遠藤愛、長塚京子、神尾米、平木理化らが続いた。「今のように選手同士が仲良しというより、ライバル心が強かった」。95年全仏オープンは競い合うように日本人女子が3人も16強入り。伊達にとって「大嫌い」と公言するクレーの舞台だったが、ライバルより先に負けるわけにはいかない。全仏で日本人初の4強に進出。伊達は日本女子黄金期のトップランナーだった。

 野球、サッカー、テニス、ゴルフ……、今や世界を舞台にする日本人は珍しくないが、90年代はほとんどいなかった。若くて華のある伊達には自然に期待も注目も集まり、スポーツ以外で話題にもなった。世界で結果を残すにつれ、伊達の内面は苦しくなった。追われる身の恐怖ではなく、「テニス以外でのストレスが大きかった。そうするとテニスが面白くなかったし、強くなりたい、勝ちたいというより、試合をする以外のことをどう受け止めるかということが先に来ちゃった」。自分で自分の身の回りをコントロールできない苦しさ。その辺の交通整理をするスポーツエージェントはまだ日本に浸透していない。そもそも20代の伊達は海外を好まず、3日間でも時間が空けば帰国するほど。遠征には炊飯器持参でのぞむような性格だった。

 そんな気持ちで挑む戦いの場はまだまだ白人の欧米選手が中心の世界。「かわいそうだと思いましたよ。あの頃はやっぱり差別があったから」。伊達がプロになった頃に審判としてのキャリアを始めた川廷尚弘・楽天ジャパン・オープントーナメントディレクターの述懐だ。セリーナ・ウィリアムズ(米国)ですら、プロ転向後しばらくは意地悪な扱いを受けているが、伊達も世界トップ20くらいのころは「キミコ」と声をかけてくれたのに、トップ10に入った途端にそっぽを向かれたという。「練習コートの予約もとりにくいし、トップ選手のはずなのに『第2試合に入れてほしい』というリクエストも通らなかった」と川廷。

 伊達も「トップ10に入った時、一番になりたくない自分がいた」と告白している。グラフ、サンチェスらの「『私が』『私が』という自己主張はもう強烈」(川廷)で、彼女たちのいるトップに近づくほど、伊達はいろいろな場面でその芯の強さ、我を目の当たりにすることになる。「私なんてお呼びじゃない。(トップの選手は)ナンバー1になるために全てを犠牲にできるんです。私の勝ちたいという気持ちなんてかわいいもんですよ、今も昔も」と、伊達は柔和な表情で振り返る。

 

■ウィンブルドン4強、その年に引退

 そんなメンタルで戦った96年はテニス人生の白眉であり、限界でもあった。4月の国別対抗戦、フェド杯では3時間25分の熱戦の末グラフに勝利。再びグラフと対戦したウィンブルドン選手権準決勝では日没順延による2日がかりの激闘の結果、惜敗した。この年のフェド杯監督で、92年に伊達の個人コーチも務めた坂井利郎はこう振り返る。「試合前はピリピリしているんだけれど、いざ試合に入れば度胸満点だった。いわゆるゾーンに入るとまったくミスをしないし、あのライジングショットはツボにはまったら相手は動けない。『おばさーん』と線審をどなりつけたり、『客席の日の丸を持っている人を何とかしてください』と言われて振り返ったら、(松岡)修造だったり、ということもあったけれど……。戦うという迫力は世界で引けをとらなかった」

 そんな絶頂期での突然の引退発表。惜しむ声だらけのなか、伊達に迷いは一切なかった。「自分の性格、置かれた状況を思うと、もういっぱいいっぱいだった。26歳になったばかりでの引退はやっぱり若かったなって思うけれど、今でもしょうがなかったと思っている」

 間に結婚も挟んだ11年の時を経ての08年現役復帰もまた、彼女らしかった。この年、グラフらとのエキシビションマッチに備えて行った練習をきっかけに、「これだけブランクのある30代がどれだけできるか」と勝負の世界に復帰した。さっそくこの年の全日本選手権を16年ぶりに制覇。翌年には13年ぶりのWTAツアー優勝も果たし、11年にはウィンブルドンでビーナス・ウィリアムズ(米国)と3時間近い熱戦を繰り広げた。

 

■「プロとは何か」後輩たちへのメッセージ

 「今のパワーテニスで(通用)できるとも思っていなかったし、いつケガをするか分からないから、明確な目標は設定できなかった。自分のテニスを追求する点は20代の時と変わらないけれど、勝負という点では苦しいことの方が多かった。だって負ける数の方が多いから楽しくない!」。その分、海外の選手と積極的に交流し、英語での記者会見もこなし、ツアー生活そのものを存分に楽しんだ。

 そして、親子ほど年の離れた日本人選手たちによく話しかけ、かわいがっていた。背中でメッセージを送ることも忘れずに。「プロとは何か、ですよ。プロになって何を目指しているのか、見えてこないから」。いまの選手に対する伊達の指摘はあざやかだ。3月4日現在、世界トップ100以内の日本人は大坂なおみだけ。「なおみに続け」という機運も生まれてこない。女子テニスは今、男子以上にパワーが幅を利かせ、個性を生かせる場が減った。日本女子には苦しい状況ではある。「ちょっと武器がないかな。でも(100位以内は)いけると思いますよ、ちょっとやり方を変えれば。たとえ相手がなおみちゃんやセリーナであっても、勝てないかもと思っている時点でアウトですね。3回やって3回勝つのは難しくても、あたる度に『何かやってみよう』『崩れる方法はあるかな』と探さないと」。世界のトップとコートで対峙したとき、何かを得て、次に生かさなければ、その先の道は開けない。30年前の伊達がライジングショットに活路を見いだし、グラフに6度跳ね返されても挑み続け、ついに勝ったように。

 2度目の引退の後、早大大学院に通い「砂入り人工芝コート」についての修士論文を執筆した。「砂入り人工芝での試合は日本以外にない。ずーっとそこで練習していって、プロになってから(ハードやクレーコート用に)テクニックを変えるなんて簡単じゃないし、遠回りなだけ。どうして何年も同じ(失敗の)繰り返しなんだろう。私には理解できない」。その熱さに押されたことだけが理由ではなかろうが、伊達の08年現役復帰戦となったカンガルーカップの会場はハードに変わった。日本テニス協会も、新規の国際大会は砂入り人工芝での開催を認めていない。世界で戦える日本のテニス界へ、そこに身を置いた伊達だからこそできる仕事はまだまだありそうだ。

 

 

 

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