死を考える 迫る多死社会
皆で悼む死 都市の日常に
高齢化社会の先に待つ「多死社会」。大都市では墓地や火葬場の不足は避けられず死を悼む行為そのものが大きな負担となりかねない。日常と折り合いをつけながら大切な人たちを身近に悼み続けることはできないのか。私(48)は都市における新しい悼み方を探る人たちを訪ねてみた。
まず向かったのは東京・牛込柳町、神楽坂近くの幸国寺だ。都内で納骨堂は増えているが、ここの「琉璃殿」は一風変わっている。
「仏教で特別な意味を持つ光を使って仏様の世界を表現しました」と副住職の矢嶋泰佑氏(37)。琉璃殿に入ると古式ガラス製の仏像2046体が発光ダイオード(LED)照明で一斉に発光した。柔らかな光で色がどんどん変わる。「秋の山や夏の空など故人との思い出につながる四季の風景をイメージした」と矢嶋さん。仏像は故人や家族を表しており「みなが共同体として協力し一つの世界観を表現している」(矢嶋さん)。
「参拝される方には一緒にいるすべての仏様にもお参りして、とお願いしています」と矢嶋さん。これからも家族や地域の縁が薄まる傾向は続くだろう。思わず訪れたくなる納骨堂で「皆で悼み合う」という考え方もよさそうだ。
■ 口
最近は散骨や宇宙葬など宗教的概念や家族制度にこだわらない死との向き合い方も増えてきた。さらに踏み込み、都市に適した新しい「死の文化」を研究しているのが米コロンビア大学の「Death
LAB(デスラボ)」だ。
研究成果を金沢21世紀美術館(金沢市)で展示していると聞き、行ってみた。タイトルは「死を民主化せよ」。いったいどういう意味だろう。
「死にもヒエラルキーがあります。それをすべて取り払い、都市で死んだ人がみな平等に敬意をもって扱われる方法をデスラボは研究しています」。学芸課の高橋洋介さん(33)が説明してくれた。
ニューヨークでは年5万人が亡くなるが、50年以上新規の墓地はつくられていない。新たな墓は遠方に買うしかなく、貧しい人や無縁の遺体はハート島という立ち入りが制限された島に埋められる。
最近では土葬ではなく火葬を選択する人も増えてきた。だが、それでも墓地はいつかいっぱいになる。デスラボでは、すべての死者を火葬にした場合の二酸化炭素排出量も問題視している。
そこでデスラボが提案しているのが「遺体を光にかえ、宗教や民族、家族を超える新たな追悼の形」だ。
構想の一つ「星の広場」は、マンハツタン橋に数千ものひつぎを組み込んだ遊歩道をつり下げるものだ。無数のバクテリアが遺体を1年かけて分解し、そのメタン生成のエネルギーで発光する。1年後には骨まで分解され新しい遺体がそのひつぎに入る。
遺体は消えてしまうが、遊歩道が輝き続けることを通じ、遺族は故人を悼み続ける。遺体がゆっくりと自然に帰る過程には別の効果もある。「光がだんだんと強まり、だんだんと弱まっていく1年間を通じ、大切な人の不在に少しずつ心をならしていくことができます」(高橋さん)
ニューヨークの夜景を背景にきらめくマンハツタン橋とひつぎの遊歩道。その想像図は幻想的で荘厳だ。現在の感覚でみれば、誰かの遺体が日常空間にあったら、怖がったり、気持ち悪がったりするだろう。だが、死者を常に身近に置き、皆で畏敬の念を持ちながら暮らす――。そんな社会を想像してみたら、不思議と悪くないと思えてきた。
■ 口
歴史家フィリップ・アリエスは著書「死と歴史」で、西洋における人間の死への態度は時代に伴い変化してきたと記した。かつては死と向き合い「飼いならしていた」時もあったが、現代の死は「タブー視」され、社会や生活から切り離されているという。
人類の文化や宗教の歴史は死を象徴的に認識し、死者の遺体を埋葬する行為から始まった。死をみつめること、死者に共感すること――。いずれも社会観念や思想の発展からは切り離せない存在だ。
産業革命以降、人類の思考は科学技術に偏りがちだった。だが、AI(人工知能)が人の知能を超える「シンギュラリティー」が到来する時代にはきっと「人とは何か」が問い直される。死をもう一度都市の日常に取り戻してみれば、サイエンスの発展と両輪になる精神文化の新たな未来を見いだせるのではないか。
増える無縁墓、広がる共同墓
地縁や血縁のつながりが薄れ、家族の形も変わる中で、墓の形の模索が続いている。
「郷里の墓から夫の遺骨を移し、ゆくゆくは私も入ることにしました。知り合いもいるので心強いです」。兵庫県明石市に住む、松永雪子さん(72)は昨年夏、神戸市の霊園にある共同墓を契約した。実はこの墓、会員5600人の兵庫県高齢者生活協同組合が管理する。介護や食事、住居の増改築など高齢者支援サービスを手掛けてきたが「最後は墓の問題に突き当たる」と2014年に共同墓「永遠(とわ)」を作った。
192人分の遺骨を収容できる墓は既に7割近く契約が終わり、昨年、2つ目の共同墓を作った。共通項は同じ生協の会員であること。今や生前のつながりは「家」にとどまらない。同様の共同墓は、他の高齢者生協や老人ホーム、終活のNPO団体などにも広がりつつある。
2040年のピークには死亡数は167万9000人になると推計される。同年の出生数の推計は半数にも満たない74万2000人。まさに多死社会だ。墓はどう変わるのだろうか。東京都心の公営霊園の新規申し込みが高倍率になるのを見て「墓
地が足りなくなるのでは」と不安を抱くかもしれないが、実態はそうとも限らない。共同墓や大規模な納骨堂などが増えれば、死者の数ほどに墓が増える訳ではない。
多死社会の墓の問題は「無縁墓が増えること」と指摘するのは第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員。 17年までの約50年間で夫婦のみ世帯は276万世帯から1210万世帯と大幅増。高齢者夫婦が今後さらに増えるとみられるなか「故人の墓の面倒を誰がみるか」が懸念材料だ。日本以上に急速に少子高齢化が進む中国や台湾、韓国などでは「既に伝統的な墓山が放置され、荒廃する事例もある」(小谷氏)。共同墓は一つの選択肢だ。
小谷氏は「そもそも家の墓が広がったのは明治以降」と指摘。戦死者の慰霊碑が建ち、墓石も立派になった。家族単位の「○○家の墓」は必ずしも伝統的な弔い方とはいえないとし「今後は家族以外、大学の同窓生、趣味など横のつながりの共同墓も出るかもしれない」と話す。
そもそも墓は骨や遺体を収蔵する場であり、残された人が死者を思う場所。さらには墓を持たないという選択をする人も増えるかもしれない。欧米では「自然に優しい死に方」を求めるグリーン・フューネラルという考えから墓を作らない例も増え始めているという。遺体はかごに入れて原生林に埋葬、骨を粉砕したり遺体を溶かす選択をする人も。
中国では既にネット上で世界から墓参できるサービスも広がる。墓は生きている人の中に死者を思う気持ちが消えたときに無縁墓となる。形はなくとも、誰かの心の中に大切な人として住めるかどうか、誰か大切な人はいるか、を改めて考えたい。