DNA追い古代人に迫る
縄文人東南アジア起源か
縄文時代に日本列島に住んでいた人たちはどこから来たのだろうか。縄文の遺跡で見つかった人骨の中の遺伝子を調べ、東南アジアの古代人に近いことが最近の研究で分かった。これまで色々な仮説が唱えられてきたが、科学的に議論できる証拠が乏しかった。遺伝情報を基に、古代人が移動した道筋を解き明かす研究が幕を開けると、期待されている。
愛知県の渥美半島にある伊川津貝塚は、日本を代表する縄文遺跡だ。2010年にここで出土した、約2500年前の成人女性の骨がこの研究の立役者となった。
金沢大学や北里大学、国立歴史民俗博物館を中心とするグループが、頭部の骨の中にわずかに残る遺伝子を注意深く採取し、全遺伝情報の解読に成功した。その情報を基にこの7月、縄文人の起源について成果を発表した金沢大の覚張隆史特任助教は「縄文人の全遺伝情報を解読した初の成果。東南アジアの人々の遺伝情報と比較して遺伝的なつながりを調べる足がかりができた」と解説する。
比較した相手は現在のアジアの人々や8000〜2000年前の東南アジアの古代人ら80を超える集団だ。古代の人たちのつながりを遺伝子で調べる研究はすでに試みられていたが、日本人で解読できた遺伝情報の割合が数%と低く、詳細な分析はなかなか難しかった。全遺伝情報が解読できれば情報量も多くなり、より深い研究ができる。
覚張特任助教らは遺伝情報の類似性などに着目し、6つのグループに分けた。その結果、伊川津貝塚の女性の遺伝子は、約8000年前のラオスの遺跡や約4000年前のマレーシアの遺跡で見つかった古代人の遺伝子に近く、同じグループに分類されることが判明した。
その頃の東南アジアには狩猟採集民が住み「ホアビン文化」と呼ばれる文化圏を作ていたと考えられている。その集団の一部が移動し日本列島にたどり着いた。東南アジア地域から渡来した集団が縄文人の起源とする説が最近唱えられているが、それを裏付ける結果になった。
このグループの遺伝子は他の5つのグループと大きな違いがあったが、地理的に近いグループの間で交流が起きたとみられる痕跡も見つかった。東南アジアでは、古い石器時代から住んでいた狩猟採集民が、稲作などの農耕文化をもつ集団の移動によって置
き換わる「2層構造仮説」が長く信じられてきた。今回の成果から、単純な置き換わりはなく「複数のグループが移動と交流を繰り返す、新しい枠組みが浮かび上がってきた」(覚張特任助教)という。
国立歴史民俗博物館の山田康弘教授は「遺伝情報に基づく研究は日本の考古学にとっても大きな力になる」と強調する。これまでは各地の遺跡で発掘された石器や骨に刻まれた様々な加エの痕跡などを比べて民族や文化のつながりの深さを推定していた。科学的な判断材料としては根拠が薄い。遺伝子なら実際にどの程度のつながりがあるのかを推定しやすくなる。
遺伝子を解析して古代人の足跡をたどる世界の研究者に共通する考えでもある。浸透に合わせてこの分野の研究は活発になってきた。
ただ、日本を含む東南アジアで研究を進めるにあたり大きな問題がある。古代人の骨に残る遺伝子の状態だ。
鎖のようにつながった遺伝子は高温多湿に弱く、途中で切れてしまう。バクテリアも発生しやすいため、人の遺伝子を分解してしまったり他の生物の遺伝子が混じってしまったりする。乾燥した地域の多い欧州やアフリカは遺伝子の保存状態がよく、万年単位前の古い試料でもきれいに残っている。
今回の研究では新たな分析手法を取り入れた。従来、歯の中に残る細胞から遺伝子を取り出す方法が一般的だったが、非常に硬い側頭骨に採取場所を変えた。保存状態のよい遺伝子が見つかるからだ。
取り出すときにも細心の注意を払う。極微量しか取れないため、他の遺伝子が混入すると解析できなくなってしまう。ほこりの少ないクリーンルーム内で専用の実験服と手袋を使う。
この研究はデンマークのコペンハーゲン大学を核とする国際研究チームとの共同作業でもあり、海外の複数の大学でも同様に遺伝子を解読した。北里大の太田博樹准教授は「1つの研究所だけでは信用度を高められない。国際協力体制で高い精度のデータを出せる」と話す。
遺伝情報を解読できた個体数はまだ少ない。地域も限られている。続く研究テーマはたくさんあるようだ。