オウム事件の残像

医師志した若者 暴走

 


出家2ヵ月で幼子殺害

人を助けたいと願っていたはずの若者が、いつしか人をあやめる凶行に手を染めていた。国内4つの拘置所で6日、オウム真理教元代表、松本智津夫死刑囚(麻原彰晃、63)と元幹部6人の死刑が執行された。入信当時、多くは10〜20代の若者だった元幹部らを暴走させたのは何だったのか。問いへの答えは見えないままだ。


 「これが最後の面会になるかもしれない」。3月13日、東京・小菅にある東京拘置所の面会室で、中川智正死刑囚(55)は透明なアクリル板越しに向き合った米コロラド州立大のアンソニー・トゥー名誉教授(87)にそう告げた。

 毒物学の権威として教団の事件を研究していたトゥー氏は、7年前から中川元幹部と何度も面会をしてきた。「彼が自ら話を切り出すのは珍しい。覚悟したのかもしれない」。中川元幹部はその翌日に移送された先の広島拘置所で7月6日朝、死刑を執行された。

 成績優秀で心優しい子供だった。地元の岡山市で家族をよく知る自営業の女性は6日、死刑執行を知り「母親にとっても自慢の息子だっただろう。麻原彰晃にさえ出会わなければ立派な医者になったはずだったのに……」と声を詰まらせた。

 医師を志していた中川元幹部は京都府立医科大に進学。1988年に国家試験に合格したが、子供の頃から超能力に関心が強く、冷やかし気分で訪ねた教団で瞑想を試したところ、光が体を通り抜ける体験をしたという。同年に入信。大阪市の病院に研修医として勤務していた89年8月末、周囲の反対を押し切って出家した。

 その約2カ月後、中川元幹部は最初の凶行に手を染める。6日に死刑を執行された早川紀代秀死刑囚(68)や新実智光死刑囚(54)らと起こした89年の坂本堤弁護士一家殺害事件で、中川元幹部が手にかけたのは当時1歳の幼子だった。

 脱会信者殺害、松本サリン、公証役場事務長拉致、地下鉄サリン・・・。中川元幹部が罪に問われた11事件は、そのまま教団が起こした凶悪犯罪と重なる。松本元代表直属の「法皇内庁」長官だった中川元幹部はサリン製造に関わるなどし、11事件の犠牲者は25人に上った。

 「人間として医師として、宗教家として失格だった」

 中川元幹部は公判で謝罪し、時に涙を流しながら後悔と反省を口にした。一方、元幹部らが心酔していた松本元代表は公判で支離滅裂な言動を繰り返し、最後まで事件の核心を語ることはなかった。

 オウム真理教家族の会の永岡弘行会長(80)は死刑確定後も中川元幹部らと面会してきた。死刑執行を聞いた6日、「肩を持つ気はないが、真面目な子たちばかりだったのだと思う。同様の事件は今後もまた起きるだろう」と声を落とした。


危機感あおり引き込む

松本元代表、カリスマ性誇示


 松本智津夫元代表は1955年3月、熊本県に生まれた。目が不自由なため県立盲学校で学び、幼いころから「政治家になりたい」と周囲に語っていたという。卒業後に上京、受験予備校で知り合った元幹部の女性(59)と78年に結婚して4女2男をもうけた。

 干葉県内で鍼灸院を開業する一方、漢方薬局も経営。84年にヨガサークル「オウム神仙の会」を設立した。ヒマラヤ山中で「最終解脱」を果たしたとして、自らを宗教的指導者を意味する「グル」と名乗り始め、87年に「オウム真理教」と改称した。

 長髪でひげを胸まで伸ばす特異な風貌と「空中浮揚」などの超能力″でカリスマ性をアピール。「ハルマゲドン(世界最終戦争)は回避できない」など数々の予言で危機感をあおり、信者を引き付けていった。

 ただ、95年3月のサリン事件から2ヵ月後、山梨県上九一色村(当時)の「第6サティアン」で逮捕された際には隠し部屋に潜み、現金や食料を抱えていた。公判では、かっての弟子が不利な証言をすると意味不明な言動を換り返し、家族と面会してもうめき声を上げるだけ。やがて弁護士も意思疎通が図れなくなり、2004年の一審判決公判を最後に公の場に出ることはなかった。

 


 

遺族被害者 複雑な胸中

 

「一区切りついた」


「真実迫れず残念」

 

 「一つの区切り」「真相に迫れず残念」。オウム真理教の松本智津夫元代表らの死刑執行を受け、遺族らは複雑な心境を打ち明けた。

 地下鉄サリン事件で夫を亡くした高橋シズヱさん(71)は6日の記者会見で「色々な人たちが色々な思いでこの日を待っていたんだと思うと、執行は一つの区切り」と話した。同日午前、法務省から電話で死刑が執行された元幹部6人の名前を知らされ、動悸がしたという。事件から23年がたち、「主人と私の両親は亡くなった。執行のニュースを聞けず残念だったろう」と思いやった。

 事件の公判を傍聴し続けたが松本元代表は口を閉ざし、多くの謎を残したまま。「彼らには色々なことを話してほしかった。それができなくなり、心残りがある」と胸中を明かした。「(事件を)何らかの形で伝えていきたい。人生を狂わされた者には繰り返されてはいけないとの思いがある」と厳しい表情で話した。

 松本サリン事件で被害者だったにもかかわらず捜査対象となり、報道被害も受けた河野義行さん(68)は「あの事件の真実に迫ることができなくなって本当に残念」と吐露した。

 坂本堤弁護士一家殺害事件で犠牲になった坂本弁護士(当時33)の母、さちよさんは「事件が起きてから今まで長い時間だったなと思う。堤たちには『終わったね。安らかにね』と言ってあげたい」とコメント。坂本弁護士の同僚だった小島周一弁護士は6日記者会見し「なぜ、これだけの凶悪事件にまじめな若者たちが巻き込まれたのか。死刑の執行よりも事件の核心を追究してほしかった」と悔やんだ。

 教団脱会を支援し、自身も襲撃を受けた滝本太郎弁護士はブログに「(元代表の)死刑執行は、オウム事件とオウム集団にとっては一つの区切り」と投稿。ただ元幹部らの執行については「事件と麻原を振り返り、時に応じて述べていくことで、オウム集団の根絶、類似事件の防止に役だったはず」と書き込んだ。

 

 


 

教団生んだ社会の「病」


人々の心の弱さ、リスク/「普通の人」暴走の恐怖


共感力の育成道半ば

 

豊かになったはずの平成の日本社会で、犯罪史上類を見ない無差別テロ事件にまで突き進んだオウム真理教。教団による一連の事件があぶり出した社会の病とは何だったのか。その教訓は果たして生かされているのか。有識者に聞いた。



元外務省主任分析官の作家、佐藤優氏

 オウム真理教の標的は経済のグローバル化やバブル崩壊に伴うエリート層の若者の孤独感や将来不安だった。多くの若者が強固な思想的背景のないオウムに取り込まれ、平然と他者の命を奪う行為に手を染めた。

 人々の心の弱さや空白こそが現代社会の最大のリスクであり、高度経済成長の終わり、過度な個人主義といった変化に対応すべき社会・教育制度の失敗を如実に示したといえる。

 人々の心がもたらす社会不安とどう向き合うか。司法による究明が区切りを迎えたからこそ、我々は自らの手でオウム事件の究明を続けなければならない。


カルト教団を巡る小説「教団X」を書いた作家、中村文則氏

 地下鉄サリン事件を起こした教団を調べていくうちに、「普通の人たち」の集団であることを知って驚いた。

 社会で受け入れられていないと感じた人たちが、社会の常識とは異なるルールで支配される教団の中で居場所を見つけた。そんな普通の人たちが、過激な思想の中でより過激な意見を言ってみたら認められて教団に深入りし、衝撃的な事件につながった。

 殺人という犯罪は個人が起こすものと受け止められてきたが、オウム真理教による一連の事件は社会と隔絶された「集団」が歯止めなく暴走する恐ろしさを知らしめた。


日本文学研究者のロバート・キャンベル氏

 私が1985年に日本で生活を始めたのとオウム真理教が活動を開始した時期は重なる。テレビ番組に出たり空中浮遊を演じたりするなど、商業的で思想的に底が浅いと感じていたが、多くの人と同じように教団の抱える闇の部分は見えていなかった。

 高学歴の若者たちはなぜカルト教団に入信したのか。バブルで加速した消費社会の中、専門知識はあるが教養を欠いた若者たちが周囲に共感できる人を見いだせず、孤独を募らせていたことが背景にあったのだろう。

 90年代以降、医学を生命倫理の観点から考えるなど、1つの分野を多角的に捉える学際的な教育が広がった。他者の立場を想像できる「共感力」を身につけさせる重要性は認識されてきたが、まだ道半ばであり、努力を続ける必要がある。

 

 

 

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