「信頼の負債」危機深めた

 

財政粉飾に市場不信

 

ギリシャ元首相に聞く

Georgios Andresa Papandreou 教育・宗教相や外相を歴任。2004年のアテネ夏季五輪招致に尽力した。09年10月から11年11月まで首相。祖父、父ともに首相を務めた。現在は各国の社会民主主義政党で組織する社会主義インターナショナルの議長を務める。66歳。

  世界の金融市場を揺さぶったギリシャ危機の発生から8年。南欧の小国ギリシャは20日、2010年から続いた欧州連合(EU)からの金融支援を「卒業」する。危機発生時に首相を務めたヨルギオス・パパンドレウ氏はこのほど日本経済新聞の取材に応じ「ギリシャにも問題はあったが、欧州も問題を抱えていた」と当時を振り返った。なぜ危機は長期化したのか。パパンドレウ氏の証言でたどる。

 「ギリシャ国民も野党も正しい数字を知らされていなかった。財政赤字の規模が従来の発表よりも約3倍も大きいとわかり(債権団や市場との間で)『信頼の負債』が生じた。これは時として実際の借金よりも厄介だった

 09年10月、総選挙で勝利し首相の座に就いたパパンドレウ氏は国内総生産(GDP)比3.7%とされてきた09年の財政赤字見通しが12%超になるとEUに申告。前政権下で続けられてきた財政粉飾を公表した。

 ギリシャ国債は相次ぎ格下げされ、利回りは急騰した。10年5月、ギリシャは3年間で約300億ユーロ(約3兆8干億円)の財政緊縮と引き換えにEUと国際通貨基金(IMF)から1100億ユーロの融資を受ける1次支援で合意したが、それは危機の入り口にすぎなかった。

 「ユーロ圏の銀行に預金が流出し、突如流動性の問題に直面した。ユーロ離脱の噂から、海外からの投資も止まった。単一通貨には競争力の高い国と低い国が同居する構造問題が存在する。通貨安で競争力を高めることができない以上、本来は投資という対抗策が必要だった

 1次支援合意後も市場の不安は鎮まらなかった。緊縮策で想定より景気が悪化して税収が減るなか、巨額の債務返済の持続可能性を確保できないとの見方が広がったためだ。

 「私は1年でGDP比4%もの財政支出を削減したが『浪費した国民』への道徳的な処罰ではなく(投資などの)支援が必要だった。緊縮を緩め、改革のための時間を与えるよう訴え続けたが、融資額の増大につながるだけに受け入れられることはなかった」 

 ギリシャ危機はポルトガルやスペインなど「PIIGS」と呼ばれた財政赤字国にも飛び火した。12年7月にドラギ欧州中央銀行(ECB)総裁が「ユーロを守るためにどんなことでもする」と保証するまで市場の不安は沈静化しなかった。

 「首相在任中の最大の後悔は国民投票を断念したこと。勝利して改革を継続すれば、その後の状況はもっと良くなっていたはずだ」 

 11年秋、パパンドレウ氏は2次支援受け入れの是非を問う国民投票の実施を表明したが、債権団と国内双方からの反対で挫折、約2年務めた首相の座を辞した。

 その後2度の首相交代を挟み「反緊縮」を旗印に政権を奪取したのが現在のチプラス首相だ。チプラス氏は「普通の国となり、政治と金融の主権を取り戻す」と支援終了を誇るが、緊縮財政や過去の支援卒業国よりも厳しい財政監視条件は今後も継続される。

 

 


 

「困難な決断」評価は低く

 

 肥大化した行政、借り入れに頼った放漫財政、汚職や脱税の横行――。ギリシャが隠し持っていた「時限爆弾」が2008年のリーマン・ショックを経て爆発しようとした時、首相に就いたのがパパンドレウ氏だった。 緊縮策の実行と引き換えに欧州連合(EU)などに金融支援を求めるという「最も困難な決断」(同氏)を下し、行政の透明化や医療費の圧縮など手つかずだった改革にも取り組んだ。

 ただ、債権団の圧力に屈して年金削減や増税を押し付けた指導者と受け止められ、国民からの評価は芳しくない。不運だったのは、当時のギリシャ国民や欧州各国の指導者、世論も危機に向き合う準備ができていなかったことだろう。

 ドイツとフランスは10年、投資責任を明確にするためユーロ圏での国家救済で各国の金融機関を含めた民間投資家の負担を求めると決定した。この過程でパパンドレウ氏は投資家のギリシャ離れにつながり「10年は市場から資金調達ができなくなる」とメルケル独首相に訴えたが、聞き入れられなかったという。

 12年の2次支援で実施されたギリシャ国債の元本削減は同国金融機関のバランスシートを傷めた。政府は公的資金注入のため多額の融資をユーロ圏に頼り、ギリシャの公的債務はその後も高水準で推移した。パパンドレウ氏の訴えから8年。安定した国債発行を通じ.た財政運営は支援終了後の大きな課題となっている。

 

 

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