継命915
所感 組織も信心も未来志向で
皆さんこんにちは。本
現在、覚知寺の講頭職
そんなことからか信心においても、正邪をはっきりさせる、納得のいく信心を大切にしていたようで、私たち子供たちもその精神を引き継いでいるかも知れません。
そこで、現在北海道の正信会は、このように呼んでよいのか分かりませんが「法人」と「任意正信会」に分けると、法人の寺院が多数あります。平成24年の秋に「北海道正信連合会」が各幹事の納得のゆく説明のないまま、法人のご住職方の主導で解散という事態になりました。今でも残念な思いでいっぱいです。
私は、かつて連合会の幹事を拝命していた時、正信覚醒運動第一世代の幹事さんたちがほとんどで、ご高齢であり連帯感も弛緩しており連合会の組織自体が形骸化していました。これではだめだと常に危機感を持ちながら数年後、「代表幹事」を拝命した当時、偶然にも各寺院講中の幹事さんが一気に若返り、これからに向けて前向きな考えを持っている人が集まりました。
まず、最初に考えたのは連帯感を持つために「北海道の正信の心は一つ」を合言葉にして会議の進行について、式次第を作成して、短時間でスムーズに議題を決定できるよう改善しました。連合会主催の行事などは、各幹事一人一人から意見をもらい、前向きな考えで何よりも法燈相続の意味合いから青少年を取り入れた全道大会や修養会にして、それぞれの講中の活性化にも繋がる行事になるよう心がけました。この間、各講中の幹事さんと交流を深め、信心を通しての悩みや善びをお互いに共有し、励まし合ってまいりました。
しかしながら、あの突然の解散は何だったのでしょう。昨日の仲間は今日は敵みたいな感じで法門上からのはっきりとした明確な理由がないまま解散がなされ、幹事の間では「何でこうなるの」とそんな会話の後、出てきた言葉は「お互いにそれぞれのご住職を信じて、ついて行くしかないね」でした。私は「これって大丈夫か?」と思いました。大聖人様の法門には信じてついて行くけど、ご住職や法主であっても人間である以上間違いだってある訳で、これじゃまったく今の昏迷する本山の「貫首絶対論」と同じではないでしょうか。私たちの信仰の基本は、大聖人様の法門を通して正信を貫く信心をすること。故に道理にかなった議論をしなければならないと思います。我々は人を信仰している訳ではありません。
このようなことでしたので、かつての連合会で共に汗を流した仲間や、親子兄弟が、また親類が二分してそれぞれの寺院に所属する人が大勢いることになっています。当然、葬儀や法要などでは顔を合わせますし、法人の新聞『妙風』や我々の方の新聞『継命』のどちらもお互いが目にする機会が多々あります。
最近、法人の心ある人から「なぜ二分してまで、包括宗教法人での運営でないと正信覚醒運動が進められないの?」や、また私たちの側の人からは「戒壇の本尊を法人は否定している」と法人を一方的に非難されても、法人では「我々は戒壇の本尊は否定していない」というのだから、「なんだかよう分からん!」という方もいます。信仰上もっとも大切な本尊が問題になっているのなら、双方のご住職さん方で大いに論じ合ってその上で戒壇の本尊を否定していることが道理の上から明らかになって、自然の流れから仏法の正邪、即ち謗法か否か、成仏か不成仏かが明確になり、大聖人の仏法が明らかになると思います。その結果どちらかを信ずるということなら信仰の世界を歩む上から十分納得できると思いますし、大いにそれを期待するところです。
ここで私が今一番申し上げたいことは、法人・任意といっても大聖人様から見れば、正信覚醒運動の大半を宗創の謗法と戦ったかつての、大切な兄弟姉妹であるということです。
親としての大聖人様から見れば、いずれも可愛い子供たちのはずですから、お互いに法門を議論し、ぶつけ合うことを広く我々信徒にも公開して、大いに議論すべきが真の正信覚醒につながり、覚醒運動の活性化に大いに寄与するところではないでしょうか。
現在北海道では、大半が法人の寺院で別行動していますが、その理由として、法門上の正邪をはっきりさせることなく、ただ曖昧にされているように感じます。
北海道は皆さんご承知のようにたいへん広く、正信覚醒運動も半世紀にもならんとしています。当時若かった私たち第ニ世代もはや歳を重ねていますし、いつもご指導を頂くご住職方も高齢化しました。このことは北海道だけにとどまらず全国共通の状況であると思います。我が家の法燈相続を真剣に考えねばならないのはむろんですが、特に北海は喫緊事項としてご住職方の亡きあとの信徒の拠り所となるべき布教所の建立に、真剣に取んで行かなければないという現実があります。これまで、寺院があった市町村での、ご住職が常駐する布教所の設置は急激な過疎化と信徒減少など、維持管理の上から難しいと思います。しかし、過疎地ゆえに古民家を求めて改修した道場、即ちご住職が常駐しないところの、無住の布教所を設置することが逆に容易なのではないかと思います。
したがって喫緊の課題としては、北海道の中心都市で交通アクセスが良い札幌に、ご住職亡き後に残された信徒の安心と教導の役目を担う布教所の建立、即ち次代を担うご住職を迎える「日蓮正宗正信会札幌布教所」(仮称)の建立がぜひ必要だと考えています。
今現在は、それに向かっての具体的なものはまだですが、仏法でいうところの「発心なくして成就」はないので、まずはこの札幌における布教所建立を目指すという発心を、今後は一人でも多くの同心の方々と共有すべく頑張って行きたいと思っているところです。
先程来申し上げてきた事柄が、今の私の所感とすべき偽りのない思いであり、それらがみな正信覚醒運動につながり、また今大会テーマの「未来へつなぐ折伏下種を」につながると確信し、本日の私の所感発表を終わらせて頂きます。