新春対談
歴史と対話「今」を知る
知恵や経験 人類の財産
2019年4月末の天皇陛下の退位も決まり、「平成」が幕を閉じようとする中、日本はかつてない危機に直面している。隣国の北朝鮮は核実験や大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発をやめる気配はなく、米国とは一触即発の状況だ。歴史に何を学ぶのか。歴史学者の磯田道史・国際日本文化研究センター准教授と橋本五郎・本社特別編集集委員が歴史をひもときながら、リーダー論や日本の将来像などを語り合った。
1次情報の大切さ
橋本五郎特別編集委員 今を生きる私たちの特権は、100年前、いや1000年前の人や事件を自由に論じ、楽しむことができるということではないか。
磯田道史氏 2017年は天皇陛下の退位に関心が集まったが、過去の天皇の譲位(退位)がどういうふうに行われたのか、実は興味深い1次資料を調べた。女性天皇である後桜町天皇(1740〜1813年)について、譲位にかかわった公家の日記を読むと、譲位の儀式の前日にリハーサルをしていたことや、譲位の際に、皇太子におっしゃった言葉が分かった。日記には「退位後は、新天皇である皇太子を譲位後も輔導する」という文言があるほか、上の人たちがたくさんの税金を取ると、下の者は苦しむので気をつけるように、と助言する一文も入っている。1次情報に触れると、扉の奥が見えてくる。これが歴史のおもしろさだ。
橋本 「輔導」とは正しい方向に導くことだ。いい表現ですね。うまく権威を移行するために、天皇としての教育を私がやるとの思いがうかがえる。しばしば懸念される二重権威ではなく、積極的な価値を見いだしている。
磯田 良質の1次情報に接すると、我々は次に解釈をする。解釈をした中で、今を生きる上での示唆、教訓を得ることができる。
資料と想像力
橋本 作家の塩野七生さんは、時代を俯瞰する「鳥の目」と、「神は細部に宿る」とばかりに細部を大切にする「虫の目」を駆使した本を書かれている。「ローマ人の物語」では、ローマ帝国時代につくられた街道と秦の始皇帝による万里の長城という同時代の大事業を比較しながら、文明のありようを問うている。
磯田 人類の知恵というのは、時間と空間が違う歴史的事実を並べて、そこから共通性や違いを眺めることから表れてくる。我々歴史学者が歴史論文を書く場合には、検察捜査に例えると、起訴して公判維持ができる証拠がそろった物のみで書かないといけない。しかし、これだけで人間の歴史が分かるかというと全く分からない。資料を見て考えることを大事にしなければならない。その意味では塩野さんはすばらしい。
橋本 歴史家の萩原延壽は「歴史家にも許された想像がある」と言っている。塩野さんはそのことが常に念頭にあったそうだ。
信長・秀吉・家康
磯田 日本という国の出発点は、軸となる部分は天皇がいらっしゃるけれども、権力体としては織田信長と豊臣秀吉が作ったものと言える。
橋本 秀吉の刀狩りは画期的だったのではないか。武器を差し出す代わりに、安全を保障するという近代的な契約を実践した先駆者でもあった。
磯田 管理される労力を日本はこのときに得た。日本人は法律や罰則がなくても、それなりの行動がとれる、民度が高い国民だ。
橋本 「範は歴史にあり」と思うが、あまり堅苦しく考える必要はない。純粋に楽しめばいいと思う。
磯田 それはその通りだ。あと、しばしば歴史は勝者が作ると言われるが、負けてひどい目に遭わされた側も、必ず後に歴史を自分たちのためにこだわって書き換えようとする動きをする。歴史の改ざんや捏造と批判されることもあるが、歴史はそういうもので、なぜそうするかを考えることが重要だ。逆に言うと、改ざんや捏造をしてくれた方が歴史の意図やそれを書き換えようとする人の真意が見える。どうしてそういうことが起きるのか、織り込み済みで歴史を読むだけの能力が重要だ。
橋本 徳川家康が武田信玄に敗れた三方ケ原の合戦にもそれが見られる。
磯田 通説では武田軍が2万〜3万人、徳川軍が8000人、徳川軍には信長の援軍3000人がいたとされる。しかし、江戸時代には敵の武田軍が多く書かれている。武田軍は江戸中期の文献では4万人、江戸後期には4万3000人となっている。
橋本 家康としては、何としてでも、数が少なかったから負けたとしたかったのだろう。
磯田 「神君」となった家康がたくさんの援軍を送ってもらいながら、負けたとは書けなくなったという事情がうかがえ、徳川幕府の歴史書が捏造に近い改ざんを行ったことが分かる。しかし、重要なのは、改ざんや捏造は起きるが、元の資料や、古文書が残され、後に公開されることだ。
司馬遷の使命感
橋本 公的立場の人は、歴史の厳しい審判を意識しながら、歴史の風雪に耐える覚悟が必要だ。
磯田 2017年は森友学園や加計学園問題をきっかけに公文書の取り扱いが話題になったが、役所や政府にとって都合の悪いものを破棄するのは、やはり問題だ。長い目で見ると、記録をきちんと残した方が公務公員にとってもいいと思う。後で参照できる方が安全弁になる。
橋本 司馬遷はなぜ「史記」を書いたのか。宮刑(去勢の刑)を受ける生き恥をさらしても、歴史を書かなければならないという使命感があったからだ。
磯田 中曽根康弘元首相は、自らを歴史法廷の被告であると言った。歴史の評価に堪えうる仕事をするというのは、きちんとした長期的な視点があるかどうかだ。医学の発達で人間の寿命が延びても、永久ではない。他の動物と違うところは文字に残すことができることだ。後の世代と、自分の知恵や経験を共有することができることはすばらしいことで、それを命がけでやってきた.のが人間の歴史だ。
名宰相の覚悟に学べ
理想と現実重い決断
限界を知る家康
橋本五郎特別編集委員 磯田さんの本を読んでいると、徳川家康に対する評価が総じて高い。
磯田道史氏 永続する平和を実現したことと、非常に厳しい東アジア情勢の中、曲がりなりにも落としどころをつけたという点を評価している。中央集権の限界を自覚して、地方のことは地方に任せ、当時の日本の身の丈にあった行政の姿を作り出した点にも、家康の非凡さを感じる。
橋本 1人で保持できる権力の限界を分かっていたが故に、「分割統治」を目指した。戦いに敗れ、人質になり、苦労したからこそだろう。織田信長、豊臣秀吉の存在も大きい。
磯田 前の車が倒れるのを見て、わだちをどう通ればいいかということを知った。最も歴史を生かした人ではないか。家康は日課として、鎌倉幕府を作った源頼朝の先例などを学んだ。死の間際には、朝鮮半島からわたってきた活字による統治用の出版事業に取り組んだ。
「私の中に国家」
橋本 第37代米大統領のリチャード・ニクソンは「指導者とは」で、チャーチル英首相が権力を求めたのは、「他の誰よりも自分が巧みに行使できると心から信じたからにほかならない」と書いた。石原慎太郎・元東京都知事が、中曽頗康弘元首相のことを「国家を背負った男」と表現しているのも同じだ。
磯田 私は中曽根氏の回想録「自省録」発行に携わったが、その時、中曽根氏は「私の中に国家がある」と明言した。権力行使には、これほど重い覚悟が必要だ。悲しいのは、認められたいという承認欲求でなる指導者が時々いることだ。リーダーの地位とはそういうものではない。
橋本 サッチャー英首相も信念を持っていた。1979年、経済の立て直しを公約に掲げて政権奪還を目指した総選挙の演説で、旧約聖書の預言者の言葉を引用する形で、「これが私の信仰であり、ビジョンである。もしあなたがそれを信じるのであれば、私についてきなさい」と訴えた。これぐらいの気概がないと真のリーダーは務まらない。
磯田 第2次世界大戦終戦時の鈴木貫太郎首相もそうで、終戦工作を決して投げ出さず、終戦すれば切腹覚悟の陸相もまとめて、自分の内閣で収拾させた。一般人が就く仕事の中で、最も国のリーダーに近い仕事は飛行機の機長だと思う。「自分が事を処理する」という確信が必要だ。
橋本 文学者の小西甚一は畢生の大著「日本文藝史」を残し、「考えることは人間の特権であって、機械がどれほど進歩しても人間の相手ではない」と説いた。人工知能(AI)時代といわれるが、大切なのは「人間の目」ではないか。
磯田 AIに我々が置き換えられるかというとどうも違うようだ。目的とルールが定まったものには極めて強い効果を発揮するが、それを定めるのは人間だ。
戦い嫌う日本人
橋本 リーダーのあり方から見て、今の政治状況をどう診断するか。
磯田 本来、小選挙区比例代表並立制を作ったときに、責任野党を育てるはずだった。しかし、日本人は、米国の共和党と民主党のような二つの選択肢で決めるということが合っていなかったのではないかと感じている。
橋本 中選挙区制は多様な人を共存させる温和な制度だ。生きるか死ぬかの勝負となる小選挙区制を導入することで、政治を活性化させようとしたが、日本人は基本的に戦うことを歓迎しないように思う。
磯田 日本人は闘争と排除への恐怖心が強い。だから、先の衆院選直前に希望の党代表になった小池百合子・東京都知事が「排除の論理」を持ち出したことで、高まっていた野党結集への機運が一気にしぼんでしまった。
橋本 政策で峻別することは当たり前のことだ。ただ、弱者いじめともとれる言い方に問題があった。それが国民の怒りの琴線に触れたのだろう。
後ろ指さされても
磯田 私が思うのは、日本は核の傘に守られているとしても、被爆国なので、核廃絶を現実の核戦略とは別に主張すべきだと思う。
橋本 国際政治の見方でも、理想主義と現実主義の二項対立でとらえられることが多いが、違うと思う。理想、理念を持たないことには、単に現状追認だけになってしまう。理想を持つことで、現実の努力に力を与えることもある。
磯田 目標は理想主義、打つ手は、現実主義というのが政治家やリーダーの根本だ。明治維新で活躍した西郷隆盛、大久保利通もそうだった。目標をどのように導き出すかは一番大事な部分だ。手段をどう取るかは、極めて現実的に考えたときに、時には人に後ろ指をさされても仕方がない決断もあると思う。それでも目標と手段の関係を理解しているかどうかが大事だ。
尾張(愛知県西部)で1534年に生まれた信長は60年、今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破るなど次々と戦果を上むげた。82年に京都の本能寺で家臣の明智光秀に討たれ、天下統一はかなわなかった。秀吉は農民出身ながら信長に仕え、厚い信頼を得た。信長の死後、明智軍を破つて敵討ちを果たし、90年に天下統一を成し遂げた。刀狩りのほか、全国一律の基準で農地面積などを調べる太閤検地を行った。98年に亡くなった。
1572年、徳川家康が三方ケ原(浜松市)で武田信玄に敗れた戦い。進攻していた武田軍が浜松城を目前に素通りする動きを取ったため、徳川軍が城を出て追ったが、三方ケ原で待ち伏せしていた武田軍に返り討ちに遭って大敗した。
中国・前漢時代の歴史家。父・司馬談の後を継ぎ、歴史や暦などを担当する官職「太史令」に就いた。中国史書「史記」は、古代伝説上の帝王・黄帝から武帝までを個人の伝記を中心とした紀伝体で描いたものだ。
豊臣秀吉の死後の1600年、関ケ原の戦いで石田三成を破り、03年には征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。かつて天下統一で協力した秀吉の息子である秀頼を大坂夏の陣で倒したほか、各地の大名を統制し、後に参勤交代制が加わる武家諸法度を定めるなどして約260年続く江戸時代の礎を築いた。16年に亡くなった。
1874年生まれ。1900年に英総選挙で初当選し、40年に首相に就任した。第2次世界大戦後の勢力圏を話し合うヤルタ会談にも加わった。46年の「欧州大陸に鉄のカーテンが下りた」との演説は、東西冷戦の到来を象徴する言葉として語られている。53年に「第2次大戦回顧録」が評価されてノーベル文学賞を受賞。65年に亡くなった。
いずれも薩摩藩士で討幕運動の中心となった。2人は薩長同盟の推進や廃藩置県の実施などで協力関係にあったが、西郷らが唱えた「征韓論」に大久保らが反対したことで対立、征韓論は実現せず、西郷が政府を離れて士族の生活救済に取り組む一方、大久保は政府の中心人物として地租改正などを実現した。西郷は士族に押される形で、1877年に西南戦争を起こし、戦死。大久保も78年、不平士族に暗殺された。