文 化
親の顔
林家 正蔵
鏡の中にうつる自分の顔をしげしげとみるのが、近頃のならわしだ。白髪が鼻毛にも増え、目の下がたるみ、シミが知らぬ間にひとつできていた。誰にそれを言われるともなく姿見の前にイスを運び、じっくりと己の顔にむかい合う。決して楽しいことではないがそこに何がしかの意味合いを求めているのは、たしかだ。
「顔は男のりれき書」と古い男性化粧品のコピーでその昔、そんなものかと20代で仕入れたフレーズが今になってボディーブローのうに効いてくる。鏡のむこうの自分に、情けない疲れきった中年男に「ちゃんと生きてるかよ」と友人のように聴いてみる。当然相手は答えるすべもなく、ただただこちらを見返してくる。いやむしろ無言のまま「お前こそどうなんだよ」と問い返されているような気さえする。
55歳。父が亡くなった年齢を1つこえた。今になって思うに大正生まれの55代といったら随分と年寄りの風格があったような気がする。平均寿命も短かったし、まだこちらも10代の小僧だったせいかもしれないが、充分に成熟した大人感を50代の父はかもしだしていた。父が亡くなってから40年ぐらいの月日が過ぎる。
子供のころからつい最近まで、私はこれっぼっちも自分と父が似ているとは思ったことがなかった。ところが父の年齢をこえたころから、「お父っつぁんに似てきたね」と言われることが多くなった。つい先日も浅草演芸ホールの楽屋で五街道雲助師匠が、私をじ一つとみて、ニヤニヤっと「先代に似てきたよ、あんちゃん」と声をかけて下さった。
高座着に着かえネタ帳をめくってひょいとこちらをみた時に、やはり高座看でひかえた私に父の姿をかいまみたそうだ。「どこというと、どこがどうということもないが、ふとした仕草、横を向いた何気ない表情はまるでお父っつぁんがそこにいるような気がした。血は争えないネ」と言われると、なぜかとても嬉し心気持ちで一杯になる。
父と同じ大正14年(1925年)生まれの桂米丸師匠も三笑亭笑三師匠も現役で高座に上がっておられる。もしも、はないが父が存命であったら私の人生も多分変わっていたかもしれない。いやもっとダラダラと日々を過ごし、でくのぼうのような人間になっていたに違いない。
そうすると父が早く他界したことが、己の中に、うかうかしていられないぞという尻をけとぼす後押しのような気がまえをこしらえてくれたのであろう。前からおもっているし、わかっているのだが落語家なんて商売は、代々やるものではない。しかしたまたまそ.の家にうまれて、どうしても押しつけではなく落語が寄席が大好きだったから父の門をたたいた。さぞかし困ったであろう。
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立川談志師匠が私が見習い時分、鈴本演芸場の楽屋で「己の人生の肯定という意味でいえば、一番それをしてもらいたい人間に、してもらったという事だ」とおっしゃって頂いた。その意味は当時わからなかったものの、息子が入門したいといったときに、嬉しさよりも大変だなあ−という困惑がまさっていたのを今でも感じている。
息子は日々ラグビーボールとむきあい学生時代をすごしてきた。そんなある日、新宿末広亭の楽屋口をでると、そこに出まちをしていた。「師匠、弟子にさせてください」。つめえり姿の高校生が頭を下げていたが、まごうことなき私のせがれ。一間おいて口をついて出たことばが「よーく考えてから、もう一度出直してきなさい」。
自分でもそんな台詞がすらすらと出たときにはびっくりした。もう40年以上も前、中学3年生だった私が弟子入りを志願したとき父が言ったことと一言一旬同じ台詞だ。体のどこかにしみついていたのであろう。
その息子が二ツ目になった。さてこれから先の教科書はなく、この先、何を教えてやれるかが、かいもくわからずにいる。でも結局おしえてやれることなんか何もなく、自分がちゃんと生きていて、その姿をきちんと見てもらい、そこで何かを身につけていくことが一番大切なことであろう。
息子をみていると私よりは嫁のいいところを多分うけついでいるのではとほっとしている。社交性、運動神経、おおらかさ。私はへんくつで、シャイで、体力に自信がない。そのうら返しで、細やかな気遣いとか、言葉や態度などでもっとこうしろとイライラしてしまうのが親と子というものかと、いまさらながらいやというほど痛感させられる。
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よく世襲という言葉が活字で使われているが、あまり肯定的でなく、否定的な意味合いが多い。政治家、経営者、歌舞伎俳優、タレント、役者。しかしごらんのように、その跡をついだからといって全ての世襲看たちがうまくいっているということはない。
それどころかダメなものたちの方が多く、ワイドショーなどでも、親たちが成人をすぎた子供たちの不祥事で謝罪している姿をよく目にする。大人の年齢になった子供の不始末や責任をその親がわびるのは痛々しく思うし、育てかたをわびたところで、今さらその人たちをどう責められようとも思う。
親の顔がみてみたい、ということか。さすれば毎日のならわしとして、己の顔を鏡にうつすのはどこかで自分の顔の中に親の顔を捜しているのではないかりそんな気がする。そして時々、つかれきった情けない、親の顔をみる。そしてたまに、はれがましい親の顔に会う。
はやしや・しょうぞう 落語家。
1962年東京生まれ。こぶ平の名で父の初代三平に弟子入り。88年真打ち。2005年3月祖父の名跡正顧の九代目を襲名。