経済教室 エコノミクストレンド


スキル「斜め展開」のすすめ



ポイント


。労働の質向上がマクロ経済活性化のカギ

。リカレント教育充実には企業の協力重要

。時間をかけてスキルを学べる社会が理想



副業・兼業促し経験を蓄積


柳川範之  東大教授

 

 世界経済の構造変化を考えたとき に今後クローズアップされるのは、労働の質の問題である。マクロ的には、失業率や就業者数などが注目を浴びがちだ。しかし、何人が働いているかという数の問題だけではなく、どのような働き方ができているかという質の問題も、国内総生産(GDP)や成長率など経済全体に大きな影響を与える。ただし、問題なのは労働の質の高低は需要側の評価に大きく左右されるという点だ。

 どれだけ今まで時間と労力をかけだスキル(技能)でも、需要される製品やサービスの提供に役立たないと能力を発揮できない。特に人工知能の発達など技術革新が急速に進むと、必要とされるスキルや能力が大きく変化し、労働の質が大きく変わってしまう可能性が高い。その結果、マクロパフォーマンスや所得分配、場合によっては物価水準にも大きな影響が出る。

 20年以上前に、米ノースウエスタン大学の松山公紀教授が明らかにしたように、変化に対応して労働などの生産要素が適切に調整されないと、マクロ経済は縮小し、GDPにマイナスの影響を与える。松山教授の分析は主には産業間の移動調整に関するものだが、この結論は質の調整についてもあてはまる。

 特に日本では、労働人口の減少が進む。技術革新に対応した形で、スキルを調整し労働の質を高めていくことは、マクロ経済を活性化させて、成長率を高めていくうえでの大きなポイントである。

 


 近年、社会人に対する学び直しや「リカレント教育」の重要性が叫ばれているのは、このようなマクロ的な構造があるからだ。経済全体を活性化させ人々が満足感をもって働くためには、それぞれの知識や能力が陳腐化しないように、またより活躍の場が広がるように、どの世代もその時代の環境変化に合わせて能力開発をする必要がある。

 しかし、現実的には、そのような能力開発に役立つカリキュラムが十分に整備されているとは言い難い。その後の働き方に役立つと期待できなければ、誰も時間とお金とリスクをかけて、教育を受けようとしないだろう。したがって、リカレント教育においては、どのような能力が必要か分かっている企業側の協力がかなり重要となる。

 たとえば、講師陣やカリキュラム作成に企業側が関与すれば、よりニーズに即した教育ができ、その後の働き方の進展に役立つ。経済団体などが協力すれば、多様な業種に関するカリキュラムを作成し、教えることも可能になるに違いない。そもそも教育や学びというと、どうしても教室で講義を聞く座学のイメージを抱きがちだが、リカレント教育では実際に働いてみる、オンザジョブトレーニングも必要となる。この点でも企業の関与が不可欠だ。

 ただし、必ずしも実践的な授業だけが必要とも限らない。社会や人間の本質的な理解を深めるために、たとえば哲学などの人文科学系の学問を習得させ、考えさせることは、欧米の幹部人材教育などでも重要視されている。

 企業が関与したとしても大きな課題として残るのは、どのような知識や能力を身に着ければ昇進させるのか、あるいは中途採用しても良いと考えるか、実は企業自身にも十分に整理できていない場合が多いという点である。そのため、必要なカリキュラムは何かを、企業側でもうまく提示できない場合も少なくない。この点は、今後リカレント教育を政策として考える場合の大きな課題だろう。

 


 様々な年齢と経験を経た人がいるため、多様なニーズに合わせたプログラムをいかに提供するかも重要な課題となる。将来に役立つようにと、たとえば最新のプログラム言語を学びたいという人と、完全に新しいキャリアに挑戦しようとする人とでは、当然学ぶ内容やかけるべき時間も異なってくる。本来は、それぞれに合わせて教育プログラムがあるのが理想だ。

 ただし、多くの社会人を考えた場合、自分のスキルの幅を広げる、あるいは他の場所で自分のスキルを生かすといった、いわば「スキルの斜め展開」のためのプログラムが一番必要になるだろう。

 たとえば、本の編集しか経験していないと、出版業界でしか働けないと思いがちだ。しかし実際には、編集のスキルは他の分野でも必要とされる。たとえばウェブサイトの編集で働くには、ネットの知識や写真の撮影・編集など新たなスキルが必要になるだろうが、もともとの知識や能力が無駄になるわけではない。既に得たスキルを生かしながら、新たな知識や技能を加えて、真上ではない斜めへの発展を図る。これが、技術革新などの環境変化に対応していくうえでの、メジャーな能力開発のパターンだろう。

 また、社会人になってからも学ぶことが普通になれば、20代前半までの学校数育も抜本的に変わるだろう。そもそも日本では30代以上が大学で学ぶ率が世界的にも低い。たとえば、もっと若いときから働き始めて、その後大学で必要な知識や能力を勉強するというパターンが普通になっても良いのではないか。

 リカレント教育によってスキルアップを図っていく結果、同じ企業内あるいは同じ産業内で働き続ける場合もあるだろうが、違う企業、違う産業が新たな活躍の場になる場合も当然出てくる。雇用されるのではなく、自分で起業するケースもこれからは多く出てくるだろう。

 特に人生100年時代と言われ、どんな人でも少なくとも定年後のセカンドキャリアが存在する時代には、一つの会社だけで働いて、人生を終えるケースは極めてまれになってくる。社会貢献などに従事する可能性も含めて、だれもが新しい活躍の場を意識した、キャリア形成、スキルアップが求められる。

 けれども、自分の会社しか経験がないとセカンドキャリアを作りにくいのも事実である。その意味で、副業や兼業を促進して、今の仕事、今の会社以外の場所での働き方左積極的に経験させることは、リカレント教育としても重要である。特に、実際の業務を経験することが重要な、業務や産業分野では、副業という形で業務を経験することは将来に役立つ。

 リカレント教育の課題は時間や資金の確保だが、その点でも兼業や副業であれば、ある程度の所得を得ながら、新しい分野のスキルや、今とは異なる企業や産業の実態を学ぶことが可能になる。また、転職や起業にいきなり踏み出すのはリスクが高いと感じる人が多いのも事実だ。どの程度自分のスキルが通用するのか、あるいはその産業に合っているのか確認するうえでも、副業で働いたり起業したりできれぼ、リスクを小さくできて有効だろう。

 


 技術革新の波が大きいことを考えると、理想的には、15年あるいは20年ほど働いたら1年ぐらいはじっくり時間をかけて必要なスキルを学ぶ、あるいは他の仕事をするなどして自分自身を見つめ直し、変化が生じる将来に備えることができる――そのような社会システムを構築することが必要ではないか。そのためにかかるコストは、経済全体にとって重要な投資であり、結果的には大きな生産性の向上が見込めるはずだ。今求められるのは、このような大きな社会システムの変革を実現させる政策ではないだろうか。

 

 

 

 

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