文化
変わる室町観
応仁の舌Lは地方分権 秩序あった
関連本のブーム続く
学術書として異例の40万部を超えた呉座勇一著「応仁の乱」(中公新書)に象徴される室町ブームが広がりを見せている。新刊だけでなく既刊の室町本にも注目が集まり、城郭考古学でも成果が見られる。「分かりにくい時代」「戦 国につながる無秩序」といった従来の室町観が変化してきた。
9月下旬、京都市の国際日本文化研究センターで同センター助教の呉座氏が「内藤湖南、応仁の乱を論じる」と題し講演。 会場は聴衆で満員になった。内藤は戦前を代表する東洋史の大家で、日本史にも多大な影響を与えた。応仁の乱を「日本史上最大の事件」「現代日本を知るには応仁の乱以後を知れば十分」と論じたことが広く知られる。 なぜ東洋史家が応仁の乱を論じたのか。呉座氏は1911年に発生した中国の辛亥革命が念頭にあったと見る。当初は明治維新と同様に中国も近代化が進むと見られたが、逆に群雄割拠の内乱へ突入。内藤は同時代の中国を論考するため、日本史上最大級の内乱に注目したと推測した。さらに呉座氏は応仁の乱は 「戦国時代に直接つながったわけではない」「革命というより地方分権の進展」と持説を展開した。 呉座氏の「応仁の乱」 は乱の全体像を把達するよりも、奈良・興福寺の 僧侶の日記に視点を定め、畿内中心に乱の実態を詳述することに注力。 多くの関係者の利害と思惑が複雑に絡み合った内乱だけに、定点観測的な記述がかえって分かりやすさにつながった。
生き残りに必死
「応仁の乱」と同様、 論考の立ち位置を明確にして分かりやすさにつなげたのが同じ中公新書の亀田俊和著「観応の擾乱」。室町幕府の初代将軍、足利尊氏と弟の直義の対立が全国の武士や朝廷を巻き込んだ激しい権力闘争に発展した経緯について読み解いている。 従来、新興勢力が支持する尊氏の執事の高師直を革新派、公家や寺社を尊重する直義を守旧派に分けるのが主流だった。 だが実際には武士たちは 両者の間で離合集散を繰り返し、勝敗は何度も入れ替わった。亀田氏は「従来説は図式的すぎて逆に分かりにくい。大半の武士たちは生き残るため、 優勢な側に付こうと必死だったことを前提にして考えるべきだ」と話す。
室町時代は戦乱続きの 無秩序な時代というイメ ージが根強い。「観応の擾乱」の担当編集者、上林達也氏は「曲がりなりにも約240年続き、それなりに秩序ある時代だった。戦国時代や幕末では飽き足らない歴史ファンも多い」と述べる。
「研究者は優秀」
新刊の室町本として注目されるのが、関東の古河公方と上杉氏の対立に始まる30年間の抗争がテーマの峰岸純天著「享徳の乱」(講談社)。2015年刊行の高野秀行、 清水克行著「世界の辺境とハードボイルド室町時代」(集英社インターナ ショナル)は現代のアフリカ・ソマリランドと室町時代の日本が、多数の秩序がせめぎ合う点で共通すると考えるユニークな内容だ。 岩波新書は昨年「シリーズ日本中世史」として 榎原雅治著「室町幕府と地方の社会」、村井章介著「分裂から天下統一へ」 を刊行。同社の大山美佐子氏は「注目されてこな かった時代だが優秀な研究者は多い。今後さらに室町本は充実するのではないか」と期待をかける。
近世の城郭の起源?
信長の手法先取りか
城郭考古学の分野で注目されるのが大阪府の大東市と四條畷市にまたがる飯盛城跡だ。室町初期、 標高約300bの山地に築かれた山城で、室町末期の1560年、畿内を支配した三好長慶が本拠地として整備した。 両市の現地調査で昨年までに33ヵ所の石垣跡を確認。航空レーザー測量で城跡が東西400b、南北650bの規模と判明し、曲輪跡と見られる地形も多数読み取れた。 長慶は将軍をしのぐ権勢を誇ったが、その本拠地にふさわしい巨大な要塞だったことが分かった。 これまでは中世の山城に対し、石垣と天守、城下町を備えた近世城郭は 織田信長に始まるとされてきた。「信長以前に本格的な石垣を築いた城郭は飯盛城以外に見当たらない。近世城郭の発生を室町にさかのぼって考え直す必要がある」と大東市教育委員会の黒田浮氏は言う。 信長は領土の拡張に合わせ尾張から岐阜、近江へと居城を移し、権方基盤を強化した。長慶も摂津から堺や奈良により近い飯盛城へと居城を移しており、この意味からも信長の手法を先取りしていたと言える。