文 化
読み書きのこと
古川 日出男
こうしてコンピュータの鍵盤をタイプしている と、「手書きで原稿を執筆する」ことがなんだか驚異的なことにも思える。が、私は昨年の暮れ に『平家物語』の現代語訳というのを上梓して、 これは900ページを超える本となったのだが(強 引に一冊に収めた)、じつはこの訳稿がまるまる手書きだった。原稿用紙で1800枚にも及んだ。 万年筆を用いて、まる2年間、この現代語訳の作業をした。 ちなみに万年筆は三本潰した。
それ以前にも、長めの戯曲を一作、また長篇小説もーつ、同様に手書きで作業しているのだが、 それでも1000枚という大台の突破には至らなかった。ある意味で、馬鹿げた労力を投じたともいえる。が、そうした馬鹿さ≠自慢するために私はコン ピュータを筆記具としないで『平家物語』を訳したのではなかった。
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たとえば、担当の編集者は、「社内に『平家物語』がらみのデータがあるから、登場人物名などは、(コンピュータを用 いて作業するならば)こちらを利用して登録ができますよ。単語登録が。 データを送りましょうか ?」と親切に言ってくれ た。私は、丁重に断わった。なぜならば、まさに 「人々の姓名」を手で書かなければならない、作中に現われるあらゆる人名こそを、と私が思っていたからだ。
呆然としてしまうのだが、『平家物語』には1000 名を超える人間が登場す る。単なる名前だけの羅列≠熨スいが。
そして、ここが肝心なのだが、『平家物語』に描かれるほとんどの人物は、実在した。
なんと説明したらよい のだろうか? 私は、生きていた人の名前を綴る、という行為は、データの切り貼りで行なってはならない、そのように 「効率優先」で済ませてはならない、絶対にいけない、と、ほとんど倫理的に感じた。そうした態度は、(実在した)人物の尊厳を、犯し、汚すことになるから、と。そんなふうに直感していた。
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私にとって、訳文は、 一種の墓石≠セったのだと思う。そこに、きちんと、それぞれの人の名前を彫らねばならない、と感じた。いちいち、そうしなければならない、と。
つまり、歴史的にほんとうに「いた」人間たちの物語と関わるとの作業は、彼らとの交流なのだ。 そして、彼らはいまでは全員死んでいるから、これは交霊なのだ。しかも、 私が交わる魂≠ヘ、美しく生きもしたが、殺しあうこともした。源平合戦の記録なのだ、これは。 そうした、凄絶さ(のリアリティ)に迫るためにも、手書きが必要だった。
とはいえ、やはりこうした心構えは、訳者である私の内部で完結するものであって、最終的に仕上がった本の評価には、 ほぼ関係しない。手書き原稿による入稿でもデータ入稿でも、書店に並び、 読者の目に触れる時には、私の手跡は消えている。この、評価につながらないという側面は、むしろ痛快で、「ああ、そうなのだな。交霊会は、 パブリックに行なうものではないものなあ……」 と、おかしな感慨を私にもたらす。
もちろん、誰かが私のこの1800枚の原稿を展示するような企画を立ててくれたら、別なのだろうが。違う流れも生まれるのだろうが。
展示、ということで思いだしたが、ここでは名前は出せない文学館で、 ある企画展が行なわれたことがあって、その際、 少し関わって驚いた。10数名の文学者の、本やら 原稿やらが紹介されているのだが、顔写真ととも に、全員、何100字か分の原稿がパネル展示されていたのだ。手書きの原稿だ。妙だな、と思った。 尋ねてみた。すると「手で書いていない人には、『ここのくだりを手書きして、当館に送ってください』とお願いし、自筆原稿を用意したのです。 この展示用に、特別に」との回答を得た。
あきらかに何かが間違っている。
と同時に、手書きにはひじょうに価値があるのだと世間的には認識されている、ともわかった。
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なぜだろうか。その理由を、自らこの秋、知った。ある公募賞の選考委員を私は務めているのだが、今回、その応募作(最終選考に残った)に、手書き原稿があった。それは、80歳というご高齢の方の、ガンの闘病記だった。そして、病床で冒頭部分を書かれたようだった。すなわち、「もう死ぬかもしれない」と覚悟して、それらの文字は書かれていた。迫力が違った。内容以上に、字が、読ませた。 こういうこともあるのだ。私たちは、ある何かを書き、ある何かを読む。 しかし読んでいるのは内容だけではない。それ以上のものを、たとえば執筆の段階で、書き込める。 ″刻める≠ニいう可能性が ある。
この種のリテラシーについても、もう一度考えだしてよいのではない か。
というのも、読み書きは、単に文章だけを対象にするのではない。私たちは、たとえば、コミュニケーションのために人の「顔」を読む。あるいは、自分の感情をわかってほしいから、きちんと 「顔」(=表情)を作る。 最近、驚いてしまうほどパブリックな場でマスク をする人たちが増えた。 もちろん事情はさまざまだろう。花粉やウイルス を防ぎたいのだろうし、 その他の、切実な事情もあるのだろう。しかし、 どうやらそれだけではないようだ。「マスク依存症」という言葉を聞いた。 単に表情を隠すために、 それを着ける、との流行。 ある種の病み方。
手書きの文字を肉筆というが、いずれは顔も、 あえて肉顔と言い分けなければならない未来が、 訪れるのだろうか? リテラシーを憂える。