文化
忍者 はたしてその正体は
古文書読み解き研究、国内外ファン向け催しで解説
山 田 雄 司
海外でも人気を集める日本の忍者。もっとも、 この「忍者」という呼称自体、昭和30年代に小説などで使われ、定着したもので、歴史的には「忍 び」と呼ばれてきた。ほかに「乱波」「透波」「草」 「奪口」「かまり」などの異名がある。
◆ ◇ ◆
地味な服で情報収集
黒装束で素早く動き回り、手裏剣を投げて敵を倒す、というのも後から生まれたイメージ。実際の忍者は地味な服に身を包み、人混みに紛れ、主君のために情報収集にいそしんでいた。日本中世史を専攻する私は古文書を読み解き、忍者の実像を追いかけている。
2012年、勤務先の三重大学が三重県伊賀市、上野商工会議所と文化研究・地域活性化の拠点「伊賀連携フィールド」を開設したのが忍者研究のきっかけ。伊賀は戦国時代、地元の土豪が忍術を発展させた結果、甲賀 (現・滋賀県甲賀市)とともに「忍びの里」として知られる。しかし、忍者の学術的研究はほとんどされていなかった。 それまで私は怨霊や祟りといった日本史学では専攻する人の少ないテーマに取り組んでいた。「忍者もやれる」と周囲に言われ、プロジェクトの責任者に。まもなく謎が多 く、想像力をかき立てられる忍者の研究にのめり込むこととなる。
◆ ◇ ◆
南北朝時代史料に記述
忍者の存在が史料上確認できるのは南北朝時代 (1336〜92年)。軍記物「太平記」に、南朝方の武将が立てこもる京都・石清水八幡宮に火を付けるため、足利尊氏の側近、高師直が「忍び」を使ったとある。その起源は13世紀後半、荘園制支配に抵抗した悪党だと考えられている。
忍者及びその末裔が自らの心得などをまとめた忍術書は、17世紀後半になると相次いで成立する。代表格が1676年 (延宝4年)、伊賀忍者の末裔で伊賀国の郷士だった藤林保武が著した全22巻の「万川集海」だ。
そこには孔子の言葉などを引用して「主君のために忠節を尽くす」大切さを説くとともに、「任務を果たしたら身を引く」と書かれている。戦国時代の忍びは各地の大名に召し抱えられ、敵国での破壊活動なども手掛けたが、なにより大切なのは敵方の状況を主君に伝えることであり、そのためには生き延びて帰ってくる必要があった。
「万川集海」には「常に酒、色、欲の三つを堅く禁制し、ふけり楽しむべからず」ともある。忍者にとって酒、女色、物欲は最大の敵であり、それに溺れない克己心が求められていたわけだ。
伊賀流忍者博物館(伊賀市)で出合ったのが、 ほとんど研究されたことのない忍術書「当流奪口忍之巻註」。地元の古書 店主だった沖森直三郎氏が収集した史料の一つで、内容から見ると1650年代以降に成立した ものとみられる。
◆ ◇ ◆
恋文持ち込む方法も
忍び込むための方法が詳述されており、中には 恋文を持ち込む例なども 紹介されている。その全文は他の研究者とともに14年にまとめた「忍者文芸研究読本」に収録した。
忍者が使う道具として最もよく知られる手裏剣は忍術書に記載はない。 手裏剣術が登場するのは江戸期の武術書であり、 忍者の専売特許だったわけではないようだ。
水蜘蛛も有名な忍者の道具だ。ドーナツ状の板の中央に、四角い板がひもでつながっている。従来は2つ用意して、左右の足を四角い板の上に載 せて水上を渡るとされてきたが、近年は浮輪のようにして使ったという説が有力視されている。
国内外の忍者に関するイベントに参加する機会も増えている。10月中旬にも真田十勇士ゆかりの長野県上田市で開かれた 「第3回NINJAフェスティバル」で講師とパネル討論のコーディネーターを務めた。
モンゴル、フランス、 英国、米国など海外も訪問。ハンガリーでは聴衆 の一人から「『伊賀惣国一揆』の資料はどこで読 めますか」といった専門的な質問を受け、忍者人気を肌で感じた。日本では忍者を扱った小説や映画は時代物が多いが、海外は総じて現代物である のも興味深い。
11月25日には、東京における伊賀甲賀ゆかりの史跡をめぐるイベントでガイドを務める。今後も実証研究の一方で、こうした忍者ファンを増やす取り組みにも尽力したいと考えている。
(やまだ ・ゆうじ=三重大学教授)