阿部哲次

 

「叙情」歌ではつまらない

 

 詩歌の作品には、もともと「抒情」と 「叙事」という二種類のタイプがあった。 いうまでもなく表現者個人の感情や感動 を述べ表したものが「抒情」であり、それに対して歴史的事実や太古の神話などを、順序づけてありのままに記録したものが「叙事」である。 両者はもともとタイプがはっきりとわかれていた。ところが最近では「抒情」を「叙情」と書くことが多いので、「叙 情」と「叙事」が入りまじって、話がややこしくなってきた。

 それは、日本語の表記に使える漢字を制限するために戦後まもなく制定された 「当用漢字表」に「抒」が収録されなかったために、公用文などで「抒情」という書き方ができなくなったので、「抒」と同音の「叙」を使って「叙情」と書き かえたからにほかならない。 だが「抒」と「叙」にはもともと大きな意味のちがいがある。

 「抒」は《手》で意味を表し《予》(ヨ) で発音を表す形声文字で、中国最古の字書『説文解字』には「挹むなり」とある。 「挹」は鉢の中から洒や水をひしゃくで 汲み出すことをいい、「抒」もそこから意味が広がって、心の中にある感情を外に汲み出して表出することをいうようになった。その意味で作られたことばが「抒情」である。

  いっぽう「叙」は右にある《又》が「手でもつ」という意味を表し、《余》で発音を表しているが、こちらは『説文解字』では「次第するなり」と訓じられる。「次第」とは順番の意味だから、「叙」とは ものごとを順序だてて処理するという意 味、たとえば役人を位階ごとに任命することが「叙任」、ランクに応じて勲章をあたえることが「叙勲」であって、「叙述」も、ものごとを順序にしたがって記述してゆくことである。

  だから歴史的事実や神話などを順序だって表現する行為を「叙事」と呼ぶのは当然なのだが、「叙」の本来の意味からいえば、「叙情」とは個人の感情を、筋道を立てて分析し、それを論理的展開に 従って述べた詩歌、ということに在る。 そんなつまらないものを、いったいだれが読みたいだろうか。 

 


 

美しいだけではない「菊」


 菊が美しい季節となった。近くの大型スーパーでは愛好家が丹精こめた大輪や懸崖などの見事な菊が展示されている。さてここで問題です。「桜」は音読みではオウ、「梅」はバイと読みますが、では「菊」は音読みではなんと読みますか?と聞かれたら、答えに窮する人が多いのではないだろうか?

 正解は音読みがキクであり、「菊」には訓読みがない。もともとキクは中国から渡来してきた植物なので、渡来前にその花を表すことばが日本にはなく、植物とともに伝わってきた中国語をそのまま日本語に取り入れた。だからキクという言葉は、非常に早い時期に伝わった外来語なのである。

 菊には実にさまざまな品種があって、子供の頭ほど大きなものから、親指の先ほど小さなものまであるし、花の色も驚くほどバラエティに富んでいる。一説によれば、品種数は900をこえるという。

 しかし菊は単なる美的鑑賞の対象にとどまらず、かつての中国医学では薬材としての効能があるとされていた。菊の花を詰めた枕は頭痛に効果があると医学書に書かれているし、乾燥させた菊の花びらを入れた「菊花茶」は、目の神経の疲れを癒してくれる効能があるという。

 さらに古くは、菊の花を食べると仙人になれるという考えがあった。

 世俗的な交わりを避け、田園地帯で閑静な生活を送った詩人として知られる陶淵明が詠んだ詩(「飲酒その五」)に、

  菊を採る東籬の下

  悠然として南山を見る

という有名な一節がある。

 いおりの東にある垣根のもとにうずくまって菊を摘み、ふと目をあげれば、はるか遠くにそびえたつ南山の雄大な姿が目に入ってくる、と詩人は歌う。

 隠者と菊の取りあわせは、まさに東洋的な風雅の趣きを感じさせるものとして、この詩句は古くから親しまれてきた。

 しかしここて陶淵明か菊を摘んているのは、花瓶に活けて花を愛てようとしてのことてはない。この菊は食用てあり、彼は実は夕食のおかずとして、庭の菊を播んていたのである。そう考えれば、ちょっと幻滅かもれない。 

 


 

「莫」が「暮」になった理由


 テレビのクイズ番組で出題される漢字の難読語のひとつに「莫大小」がある。かつては街中の工場や商店の名前などによく使われていたので、年配の方ならご存じだろうが、「莫大小」三文字で「メリヤス」と読む。メリヤスとは一本または数本の糸でループを次々に作る方法で編んだ布地のことで、靴下や肌着などにいまも使われるが、いつの間にか「ニット」と呼ばれるようになった。

 メリヤス製品の最大の特徴は伸縮性と柔軟性に富んでいることで、絹や木綿の布で作ったものに比べれば、メリヤスの肌着は身体にぴったりフィットするから、ある程度はフリーサイズといえる。腰のまわりなどにたっぷりと脂肪をつけてしまったご婦人は、それまで愛用していた絹の肌着を捨てざるを得ないが、しかしメリヤスのものならある程度までのびるから、少々太っても別にどうということはない。つまりそれはLサイズもSサイズもなく、「大小の区別が莫(な)い」ものなのである。

 ここで使われている「莫」は、漢文では「無」や「勿」などと同様に、「……なし」と訓じられる文字である。ご存じの「莫大」ということばも、本来は「それより大きいものはない」という意味であって、そこから「非常に大きい」ことを表した。

 だが「莫」は、最初からそんな抽象的な意味を表すために作られた漢字ではなかった。この字は上と下に描かれる《艸》(=草)のあいだに《日》(=太陽)を配置した形で、本来は草むらの中に太陽が沈むこと、つまり「夕暮れ」という時間を表していた。それが、「……なし」という意味の否定詞と同じ発音だったので、そのあて字として使われるようにたり、そこで「莫」本来の意味を示すために、「莫」にさらに《日》をつけ加えた「暮」という文字が作られた。

 だから「暮」には中央と下に《日》が二つあるという妙なことになつている。もしかしたら、ただでさえあわただし日暮れや年の暮れに、もっともっと時間が欲しいという意識がそこに反映されたのかも知れない。そういえば、今年もそろそろ年の暮れである。

 

 

 

 

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