子供も暮らしに寄り添う
◇「キンダーブック」豊かな憩像力を育んできた90年 ◇
登 坂 秀 樹
幼稚園や保育所で子供たちに親しまれている月刊の保育絵本「キンダーブック」。太平洋戦争による休刊はあったが、今年、創刊90年を迎えた。童謡の歌詞や短い物語を中心とした文章に、画家の武井武雄や絵本作家のいわさきちひろらが挿絵を寄せ、子供の豊かな想像力を育んできた。
1965年、児童書出版社のフレーベル館に入社した私は、すぐにキンダーブックの編集に携わり、長らく編集長を務めた。経済発展と第2次ベビーブームで幼児教育への関心が高まっていた時代。戦後復刊まもない時代を知る先輩の教えを受け、次代を担う画家や童謡作家と新しい絵本を生み出そうと奮闘した。
「観察絵本」として誕生
キンダーブックは27年に「観察絵本」として誕生した。「観察」とは前年公布の幼稚園令で新しく加えられた保育項目だ。制定に携わった東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)附属幼稚園の倉橋惣三らによると、生活の中で子供自身が自分を取り巻く世界を子供なりに知ることを意味する。
当時、保育用品を開発・販売していたフレーベル館の創業者、高市次郎はこの考えに賛同し、子供の観察の目を育てる絵本をつくろうとした。
創刊号のテーマは米。ミレーの「落ち穂拾い」を模した絵が表紙を飾り、稲の生育から収穫、流通、消費の場面が時に写実的に、時にユ−モラスに措かれる。子供たちは身近な食べ物である米について知り、米文化の歴史について自然に思いを巡らせたことだろう。
新しい本を書店に置いてもらうのは簡単なことではなかった。社員は1冊ずつ見本を園に送ったり、直接持参したりして販売先を開拓した。かいあって創刊号は増刷を重ねて完売。倉橋らを編集顧問に招いた第2号は10万部を販売し、取次を通さず幼稚園や保育所に直接販売する現在の販売方式を確立した。
太平洋戦争で休刊
戦争はキンダーブックにも暗い影を落とす。太平洋戦争の開戦翌年、外来語のカタカナ表記であるキンダーブックは「ミクニノコドモ」に改称。44年2月か46年7月までは休刊を余儀なくされた。復刊を目指す関係者の熱意はどれだけのものだったろう。復刊号に編集顧問の倉橋は次のような言葉を寄せている。
「散った後に、落ちた後に、古い根から新芽がふく。新らしい種子に、前とは別な花と実が得たれる。その更生の気は勇ましく、生長の力は逞しい」 (抜粋)
復刊の喜びと復興への期待、国の将来を担う子供たちの教育に向けた情熱が伝わってくる。倉橋は私が入社する10年前に他界し、直接教えを請うことはかなわなかった。だが、倉橋らが掲げた「子供の生活に寄り添い、豊かな心を育んでいく」という考え方は、上司や先輩かう繰り返し聞かされ、引き継いできたつもりだ。
社会風俗を映し出す
キンダーブックは各時代の子供の生活や社会風俗を映し出してきた。戦時中の表紙にはもんペのような服を着てスキーを楽しむ子供が登場し、洋装と和装が入り交じるが、戦後は洋服が一般化している。食卓にはケーキが並び、コロッケの作り方が取り上げられるなど洋風文化が浸透していく様子が見てとれる。
テレビや自動車、冷蔵庫も日常風景に当たり前のように描かれるようになる。60年代からは印刷技術の発展や紙質の改善もあって写真が多用され始めた。子供がページを開くものだけに編集も気が抜けなかった。私が入社当時の編集顧問には、童画という言葉を作ったといわれる武井武雄やお茶の水女子大学附属幼稚園の園長だった坂元彦太郎、及川ふみらがいた。
当時の会議には印刷会社の社員も出席していた。武井は原画の色が印刷でどう再現されるか細かく尋ねていた。画家であると同時にデザイナー感覚も兼ね備えていた武井の本づくりに学ぶことは多かった。及川からは絵本を子供と向き合って読むか、寄り添って読むかによって子供に与える心証の違いなど幼児教育の繊細さを教わった。
少子化と言われる今日まで、キンダーブックが脈々と続いてきたことを心から喜びたい。これまでの歴史は印刷博物館(東京・文京)で開催中の企画展(来年1月14日まで)で原画とともに振り返ることができる。これからも時代に合わせた絵やお話を発掘・育成し、子供たちの生活に寄り添った絵本であってほしいと願う。