阿辻哲次

 


「顰蹙」はセクハラ言葉?




 「ヒンシュク」ということばが流行しだしたころ、最近の若者はずいぶん難しいことばを使うものだと感心した。それが今ではふつうのことばになり、先日は電車の中で幼稚園くらいの子供が母親に「ママ、そんなことしたらヒンシュクものだよ」と叫んでいた。

「ヒンシュク」を漢字で書けば「顰蹙」となり、本来は他人の言動を見聞きし、眉をひそめて不快の気持ちを示すことを意味した。「顰」とは眉をひそめること、「蹙」とは顔をしかめることをいうのだが、そんな難しい漢字を使った単語がこれほどに気軽に使われるのは、パソコンや携帯電話でいともたやすく漢字に変換できるからにちがいない。

 このことばの出典は『荘子』の「天運篇」で、原文は以下の通りである。

 西施 心を病みてその里に顰す。その里の醜人、見てこれを美とし、帰りてまた心を捧ちてその里に顰す。その里の富人はこれを見て、堅く門を閉ざして出でず、貧人はこれを見て、妻子を携えてここを去りて走る。かの人は顰の美なるを知りて、顰の美なる所以を知らず。

 古代中国の伝説的な美女であった西施には胸の持病があり、時々顔をしかめ、痛みに耐えていた。絶世の美女が苦しげに顔をしかめる姿は、大変に美しいものであった。それで同じ村にいた「醜人」が、同じように胸をおさえては顔をしかめてみたところ、村の金持ちたちは戸を閉ざして外出しなくなり、貧しい者たちは妻子をつれて他の村に移り住んだ、いう。この話から、実力や身のほどを知らず、すぐれた人の業績や行為をただ外面だけ模倣することを「顰みに效う(「ひそみにならう」)といい、また「顰蹙」というようになった。

 すっかり日本語にとけこんだ「ヒンシュク」だが、その背景にはこのように女性を美醜のちがいで差別する構造があった。しかしそれがセクハラの例として糾弾されないのは、最近の日本人が中国古典に対する知識に乏しく、ことばのルーツを知らないからだ、と講義で話すと、あとで学生から、そんな倣慢なことをいってるとヒンシュクをかいますよ、忠告されてしまった。

 



 

覆水 離縁した夫婦例える

 

 かつて夏のお盆と正月は、「藪入り」 と呼ばれる時節であった。江戸時代の社 会には武士にも町人にも「定休日」がな く、幕府も寺子屋も商家もほぼ年中無休 だったのだが、商家の奉公人たちは正月 と七月十六日(旧暦)だけは休暇をもら えた。この日、奉公人たちは主人からな にがしかの小遣いをもらって親元に帰省 したが、中には芝居や寄席見物にでかけ た者もいたらしく、藪入りの盛り場はた いへんなにぎわいだった。心かしこの風 習はやがて「住みこみ奉公」がなくなり、 週休制が定着して急激に衰退した。いま では単に「盆と正月」という言葉がのこ るだけである。

  ところで京都は盆地だという時の「盆」 を、私は大学生のころまでずっと、お茶 などを載せて運ぶあの「ぼん」のことだ と思っていた。しかしあの平らな「ぼん」 (近ごろはトレイというらしい)では、 どう考えても「盆地」の形にならない。

  また「覆水は盆に返らず」ということわ ざがあるが、そもそも「覆水」 (こぼれ た水)が、あんな平らな「ぼん」に返る はずがない。この「盆」が底の浅い鉢のことだと知 ったのは、中国語の授業で「臉盆」(洗面器)という単語を習った時だった。またかつての中国の大学や職場の食堂では 小さな洗面器のような鉢にご飯をいれた が、それを「飯盆」と呼んだ。

 周の建国の功臣とされる太公望呂尚 は、若いころ本ばかり読んでいてちっと も仕事をせず、あまりの貧しさに妻が離 縁を申し出た。だがやがて彼が周の文王 に見いだされ、出世して斉の国王となる と、逃げた妻がおずおずと出てきて復縁 を願い出た。そのとき呂尚は鉢(=盆) に入れた水を地面にばっと撒き「おまえ は私のもとを去ったのに、いまこうして 復縁をせまる。でも鉢からこぼれた水は、 二度ともとの容器には戻らないのだよ」 といった。

 「覆水は盆に返らず」とは、 いちど離婚した夫婦は元通りにならない ということのたとえであった。真夏の夜の夢でいいから、私もー度く らいは足下にひれ伏して泣くオンナに向 かって水を撒き、かっこいいセリフを決 めてみたいものだ。

 

 

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