国が壊れるということ



池 澤  夏 樹



 この夏は1か月の間をあけて2度イギリスに行った。なんだかそういうことになってしまったのだ。

 用事は共にシンポジウムへの参加で、ぼくの役はどちらもー時間ほど話をすること。どうもキーノート・スピーチ(基調講演)担当として使い勝手がいいと思われているらしい。

 一方はロンドンでもう一方はオックスフォード。テーマは「翻訳論」と「震災文学」と異なるし、シンポジウムの規模もずいぶん違う。それでもどちらの時も空が綺麗に晴れて、涼しくて、気持ちがよかった。イギリスの天気はなにかと評判が悪いが今回は恵まれた。

 オックスフォードのペンブローク学寮は太っ腹にも空港まで迎えのタクシーをよこしてくれた。アフリカ系の実直そうなドライバー氏に拾ってもらう。今回は香港乗換で千歳からヒースローまで18時間もかかったから、これはありがたい。

 帰りも同じ彼が送ってくれた。滞在の間にこの人の名がサイードであり、スーダンの出身であると聞いていたので、話を向けた。そのつもりで助手席に乗ったのだ。

「ぼくはスーダンに行ったことがあるよ」

 相手は勢い込んで、「いつだ?」と聞いてくる。

 「1978年」

 すると彼は、「それはあの国がいちばんよかった時期だ」と言って、滔々と話しはじめた。

 スーダンはかつてはイギリスの植民地だったが、第二次大戦後になって彼らは独立国の体裁だけ作ってさっさと引き揚げてしまった。国境線の引きかたに無理があり、北のムスリムと南のブラック・アフリカは仲が悪かった。ぼくが行った時にも南北の間に緊張感があった。

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 それでも、1985年まで首相はモハメド・アン=ヌメイリで、彼はまこと徳のある優れた指導者だったとサイードは力を込めて言う。対立する各派をまとめるだけの人望があり、教育は文具代まですべて無償。清貧にあまんじて、運転手つきのメルセデスではなく自分で運転するプジョーに乗り、妻だって一人を守って誠実に暮らす。

 しかし彼は1983年に難局を乗り切るためにムスリム勢力に頼りすぎた。それがもとで失脚、一時は国外に出なければならなかった。背後には油田の発見をきっかけに外国資本が乗り込んできたこともあったのではないか。

 サイードはこの時に相国を見限ってイギリスに渡った。オックスフォードに住み着いてなんとか暮らしを立てながら、祖国のためにできることをしている。政治的なアクティビストを自認するが、実際にはできることは少ないと嘆く。

 ヌメイリなき後はハゲタカどもがよってたかって国を食い物にした。南北の対立も激しくなり、南は南スーダンとして独立したけれど、デインカ族とヌエル族が争っていておよそ国の体裁を成さない。2年ほど前、ぼくはかつて自分が訪れたジュバという南の町に「国境なき医師団」を頼って行こうと試みたが、危険すぎてとても行けなかった。彼らさえやがて撤収した。

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 スーダンでは実務に長けた社会の中間層がみな国を出てしまった。イギリス、オーストラリア、カナダなどに彼らのコミュニティーがある。30年以上の歳月が流れたのだ。たとえスーダンの政情が安定したとしても、帰る者は少ないだろう。この間の教育の空白を考えると次の世代に期待するのもむずかしい。

 サイ−ドの家は首都ハルトゥームから白ナイルを渡ったオムドゥルマンに今もあるという。

「ラクダの市が開かれるところだ。行ったよ」とぼくは言った。

「時々は帰るんだが、荒れてしまってねえ」と彼は嘆く。

 空港までの1時間15分の間、彼はひたすらスーダンの過去の栄光と現在の悲惨のことを話し続けた。

 日本のような安定した国に生まれると、国家が崩壊するという事態がなかなか理解できない。なにしろここは歴史が始まってか1945年まで一度として異民族の支配下に入ったことがないという、世界史にも希有な幸運な国なのだ。嘘だと思ったら他の例を探してみていただきたい。歴史とは民族同士の侵略と征服の記録である。日本列島でこの事実を知っているのはアイヌ人と沖縄人だけだが。

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 江戸時代のはじめから社会が安定していたから、西欧文明を導入しての近代化もうまくいった。いい気になりすぎて戦争に負けたが、それでもアメリカの占領政策はずいぶん穏やかなものだった。それ以来数10年、文化の下部構造がしっかりしているおかげで無能な為政者の無策にも耐え得た。

 世界のたいていの国はこんなに幸運ではない。スーダンのように戦後になって植民地から独立した国は基盤がもろい。資源があれば外国資本と独裁者が結託してこれを国民から奪う。なければただ貧しいまま。ロシア周辺の小国はみな怯えているし、東南アジア諸国も中国の個喝にさらされている。アメリカのわがままは見てのとおりだ。

 国が壊れるという事態を日本国良は知らずに済んできたけれど、ここで国を会社に置き換えれば思い当たる例は世間にいくらでもある。 大資本で、歴史もあって、評判もいい名門企業が首脳部の愚策のために、あるいは外部の意図的な攻略の対象になって、あるいは国の意向で、崩壊する。社員たちは路頭に迷う。

 サイードの語るスーダンと同じことだ。

 

 

 

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