英EU離脱交渉融和姿勢で
米ソロス・ファンド・マネジメント会長 ジョージ・ソロス
英国が欧州連合(EU)を離脱すると決めた2016年6月の国民投票から、約1年が過ぎた。英国民は僅差で離脱が決まった当時、生活水準が低下しないという離脱支持のメディアや政治家の約束を信じた。実際、英国民は投票後の1年間、家計の債務を増やすことで生活水準を何とか維持してきたようだ。
家計消費の拡大が経済を刺激し、しばらくの間はうまくいった。しかし最近の統計が示すように、賃金の伸びはインフレ上昇に追いつかず、実質所得が減少し始めているようにみえる。今後数ヵ月はこうした傾向が続くとみられる。各世帯は生活水準の低下と、支出を減らす必要があることを認識するだろう。
悪いことに、増やし過ぎた債務を圧縮する必要もあり、経済を支えてきた家計消費を一段と削減しなければならないことに気づくはずだ。イングランド銀行(中央銀行)は平均的な世帯と同じような過ちを犯した。インフレの影響を過小評価したため、金利を引き上げる必要がある。金利上昇によって家計の債務返済はさらに難しくなる。
経済の現実は、政治の現実によって増幅する。離脱は、英国にとってもEUにとっても有害な計画というのが事実だ。EU離脱を決めた国民投票そのものを無効にすることはできないが、人々が考えを変えることはできる。
メイ英首相は6月8日、総選挙を前倒し実施し、EU離脱交渉を優位に進めようとした。もくろみは完全に外れた。メイ首相率いる与党・保守党は議席を減らし、議会は過半数の政党がない「ハングバーラメント(宙づり議会)」となった。
メイ首相の敗因の一つは、高齢者の介護費用の自己負担額を引き上げる政策を打ち出すという、致命的な過ちを犯したことだ。野党などから「認知症税」との批判にさらされた政策は、保守党の支持基盤の高齢者から強い反発を受けた。多くが棄権し、別の政党に投票した。
若者の投票率が高かったことも、敗北の要因になった。若者の多くは労働組合に参加したいとか、労働党のコービン党首を支持するからではなく、抗議の意思を示すために同党に投票した。EUという単一市場への英国の若者の姿勢は、メイ首相ら「強硬(ハード)離脱」派とは正反対だ。若者は英国、欧州のほかの国を問わず、高給の仕事をみつけたいと考えている。若者の利害はその点で、高給の仕事があるロンドンの金融街シティーの利害と一致する。
メイ首相がその座に残りたいのであれば、EU離脱交渉に臨む姿勢を変える必要がある。メイ首相には兆候がみられる。6月19日に始まった交捗に融和的な精神で臨めば、メイ首相は懸案についてEUと合意できる。英国が離脱に必要な法的手続きのために十分な期間、EUにとどまることで一致できるだろう。EUも、英国の不在によって予算に大きな穴があく事態を先送りでき、安堵するはずだ。双方にとって有利な取り決めになる。
メイ首相が、離脱に必要な法的手続きを可決するよう議会を説得する際も、融和的な姿勢が唯一の方法だ。メイ首相は、北アイルランドの民主統一党(DUP)との無分別な閣外協力を断念する必要があるかもしれない。6月14日、ロンドン西部の低所得者向け高層公営住宅「グレンフェルタワー」で起きた火災では多数の犠牲者が出た。メイ首相は、(緊縮財政を続けて適切な防火対策を取らなかったとされる)保守党の罪を償わなければならない。
メイ首相がこうした提案を受け入れるようであれば、今後も少数与党の政府を率いることができるだろう。誰も難題を引き受けたくないからだ。英国の離脱完了は(予定している19年5月より前ではなく)少なくとも5年かかり、その間に新たに選挙を実施する必要がある。英国とEUは「離婚」する前に「再婚」したいと考えるかもしれない。
強み維持に試練
ソロス氏は1992年の英ポンド危機の仕掛け人とも称される。同氏による激しいポンド売りの結果、英国は欧州為替相場メカニズム(ERM)にとどまれなくなり、大陸欧州との距離が広がった。
そんな人物からEU離脱の過ちを説かれれば、不快になる英国人も多かろう。だが暮らしへの打撃が本格化するのはこれからとの警告には理がある。経済を動揺させない円滑な離脱の道は見えない。
自由な金融市場や世界から人を引きつける大学など、英国は独自の強みを持つ。だが、その力が欧州の一員であることによって高められてきた面があるのも確かだ。ナチス・ドイツとの戦いや英国病の克服など幾多の危機を乗り越えてきた英国だが、新たに直面する試練にうまく立ち向かえるだろうか。
George Soros ハンガリー生まれのユダヤ系米国人。世界で最も著名な投資家の一人で、慈善活動家や政治運動家としても知られる。86歳。