正解のない言葉の冒険

 

鴻巣 友季子

 

 毎年、いまぐらいの季節になると、わたしは「翻訳行脚」の旅に出る。これまでに訪れた県は、新潟、長野、高知、熊本、鹿児島、愛知、三重・・・。首都圏をのぞく全国の高校をまわり、翻訳にまつわる話をするのだ。1966年からもう51年も続いている「高校生のための文化講演会」の一環である。作家、詩人、音楽家、科学者、ジャーナリスト、漫画家、スタイリストなど何十人かの講師が、さまざまなテーマで講演を行う。

 翻訳の話など地味で地味で申し訳ないぐらいだが、意外にも、どこの高校に行っても、熱心に聴いてくれる。海外文学がさっぱり売れない昨今の日本なのに、翻訳家という職業の知名度が上がってきたためか、「翻訳」と名のつくイベントには、下は2歳から上は90代まで、広い年齢層の参加があるものだ。

 高校講演会では、一方向のレクチャーではなく、実践塾のワークショップ形式で行う。生徒たちとやりとりしながら、短い文章を訳してもらい、翻訳とはどんな営みなのかを一緒に考えていくのだ。愛知と三重では、黒髪にかわいい「天使の輪」を光らせた生徒たちが並ぶ女子高を訪れ、一方、新潟では圧倒的に男子が多いスポーツ強豪校へ。体育館に入っていくと、みんな床にデンとあぐらをかいて待っていてくれた(同校ではこれが正座にあたる)。熊本の高校では、終演後にひとりの男子生徒が駆け寄ってきて、「小説家になるにはどうしたらいいですか?」と、真剣な目で訊いてきた。1000人の生徒を前にすることもあれば、全学年でわずか64人という高校もあった。

 この小規模な実業系の高校を訪れたときは、高知空港からさらに、地元紙の記者さん自らが運転するマイクロバスに乗り換えて4時間ほどかかった。途中で高速道路はなくなり、単線の予土線の横をひたすら走って、ようやく四万十川流域の宿に到着。翌朝、梅雨どきの小ぬか雨に煙る四万十川と、岸辺に咲き群れている紫陽花の鮮やかさが目にしみた。

 この年の思い出には、チャンバラ貝に、イヌゴロシ(鮪の尾びれ)、イタドリの煮物といった郷土料理や、高知ならではのお酒の酌み交わし方もある。そう、献杯と返杯だ。今日は土佐の流儀で飲んでもらいますと、このように教わった。「目下の者が自分の盃に洒を注ぎ、掌で少し温めて相手に差す(差しだす)。これが献杯。差された方はそれをぐっと飲み干し、盃を返してそこに酌をする。これが返杯。手酌の習慣はない。飲みたければ、まず相手に注ぐ」。地元新聞社の方々がじゃんじゃん差してくれる。お酒も食も美味しいので、わたしもどんどん差してしまった。同行の女性編集者(いつも柔和だがたいへんな酒豪)も同様のようす。そのうち、お酒を注いだら下に置けない穴の開いた「可杯」も登場し、そんな調子でしばらくやっていたら、男性が何人か畳に倒れてしまった。いやいや、すみません。

 さて、ここで、これまでの講演会で出会った名訳を紹介したい。

 I LOVE YOU というきわめて簡単な一文を訳してもらうことがある。高知で価象に残っている訳文は、「すきやき・・・。鉄鍋の鋤焼きではない。「好きやき…」だ。TもYOUも訳さないこのシンプルさ! 青春の土佐弁に、同席していた出版社の人たちも胸をキュンキュンさせていた。ちなみに、熊本に行くと、「大好きばい」。かと思えば、浜辺を歩く男子と女子という設定で訳してくれた生徒もいた。少し前を歩いていた男子がふと振り返って、I LOVE YOU「あのさ、俺、おまえのこと愛してるよ」。

 もうなんだかリアルすぎて、しかもスポーツ刈りの男子がきっぱりと口にする恰好よさにしびれて、会場騒然であった。

 熊本のまた別な高校での名訳も忘れがたい。この年、わたしは4年半かけて訳し終えた『風と共に去りぬ』を上梓したところだったので、スカーレットが最後につぶやく有名な台詞、Tomorrow is another dayを訳してもらった。日本では、「明日に望みを託しましょう」 「明けない夜は決してない」など、かなりポジティヴに、ちょっと優等生的に訳されることがあるが、実はいい意味でもっといいかげん≠ネのだ。災禍が降りかかってくるたびに、彼女は目下の精神的激痛をやり過ごすため、「なにもかも明日考えればいいのよ」と、おまじないのように唱える。過酷な現実と向き合うためのスカーレット流「あとまわし術」であり、これで幾たびもの絶体絶命を乗り切る。

 生徒たちからは、「明日から新しく始まる」「明日また続きをやろう」などの訳文が出たが、極めつきは、「とりあえず寝よう」である。明日からまた苦難と闘う、でも、今日のところは寝てしまおう、というニュアンスだろうか。みごとなのは、原文のTomorrow is another dayと同じぐらいの短さで、絶妙に音まで似ていること。とうまろーずあなざでい。とりあえずねよう。ほら、どうですか。妙訳でしょう。

 いつも講演の最初に話すのは、「翻訳には正解がない」ということ。わたしがこの道を一生の仕事として選んだのも、まさにそれゆえだった。つねに答えが一つしかないのであれば、その頂きには一部の天才か勇者しかたどり着けないだろう。しかし翻訳では「頂き」はつねに幻だ。訳者は幻の頂きを目指して、あらゆる方向から山に登ることができる。登り方も十人十色。峻厳な若山にハーケンを打ちこみながら最短距離で登ろうとする者、遠回りでも少しなだらかなルートを選ぶ者、あえて前人未踏のけもの道に分け入る者。途中で見えてくる景色もそれぞれ違うだろう。まれに、視界が360度パノラマのようにひらけ、ついに頂上にたどり着いた!と思うこともあるが、それは神さまが見せてくれる優もくも残酷な幻影にすぎない。だから、今年もわたしは高校生と正解のない冒険に出る。

 

 

 

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