遠藤周作の小説 スコセッシ監督が映画化

沈黙 



 私はこう見る

 

 キリシタンの受難と宣教師の棄教を描く遠藤周作の小説「沈黙」を米国のマーティン・スコセッシ監督が映画化した。遠藤文学の世界性、映画の国際性を考える上で重要な作品だ。識者に見方を、監督に意図を聞いた。

 


母語より深く行間読む

文芸評論家 若松英輔氏

 「沈黙」は世界文学であると改めて思った。スコセッシは遠藤周作が行間に込めたものを、日本人が母語で読むよりもはっきりとつかんでいる。終わりに近い場面で、踏み絵を踏んだキチジローが告解を聞いてくれと懇願する。棄教したロドリゴはいったん拒みながらも最後には受け入れる。信仰は棄教してなお深まる、なお広まり得るのではないかと遠藤は問いかけている。こうした挑戦をこの映画は誠実に引き受けている。

 これまで日本の宗教界、文学界が見過ごしてきたのはこの小説における苦しめる民衆の存在だ。宣教師ロドリゴはキリシタンであるモキチからもらった十字架を最後まで大切にもっている。信仰を与えるつもりで日本に来た宣教師が、無知であるがゆえに獲得された信仰の深みへと導かれている。そうした光景も映画は見事に活写している。

 日本における西洋との出会いは最初、政治的場面において時の権力者によって行われた、と従来の歴史観は教える。しかし遠藤は、民衆の心のなかで信仰生活において行われだと感じている。

 原作の読者はロドリゴ中心に読みがちだが、スコセッシは民衆に深く視線を注ぐ。彼は世界に対する神の沈黙とともに語らざる民衆の内なる沈黙にこそ本当のドラマがあることを映像によって描きだそうとし、それに成功した。

 


普遍性と特殊性の衝突

エール大教授(映画学) アーロン・ジェロー氏

 信仰、罪、倣慢という主題を追ってきたスコセッシが本当に撮りたかった作品だと思う。自分の問題意識を貫きながら、遠藤の原作にも忠実だ。

 前半は海や霧など自然がきれいな超越的な映像で、ロドリゴが捕まった後半は平凡な映像になる。それがあえてよかった。この映画の中心人物にとっての根本的な問題は、どんなに祈っても神は沈黙していること。スコセッシは映像のスタイルの中にも沈黙をつくった。信仰を超越的なものでなく、答えの出ないものとしてとらえた。そして観客に考えさせた。

 もう一つの問題は普遍性と特殊性、グローバルとローカルの衝突だ。奉行は土地によって育たない木があると言う。ロドリゴはどこでも育つと言う。その人が「転ぶ」。これをどう評価するか。

 転ぶ方が神の御心に沿う。土地にあわせ、自分なりの信仰を見つけよう。信仰は超越的なものでなく、状況の中でどう動くかだーー。遠藤もスコセッシもそう考える。

 米国では典型的なオリエンタリズムの映画だという批判もあるが、私はそうは思わない。思い通りにならなかった白人が妥協するが、日本の考えが勝ったわけではない。普遍性と特殊性がぶつかった時、どうするかを問う。自国第一で国境に壁を作ろうという考えが米国にも欧州にもはびこる今、その問いは重い。

 

 


生身の日本人を描く

映画評論家 佐藤忠男氏

 キリシタンの農民一人ひとりが人間として丁寧に描かれていることに感心した。日本の時代劇では侍だけが堂々としていて、農民は卑屈にペこペこするか、やたら反抗するという型しかない。一方、アメリカの西部劇は開拓農民たちをプライドをもった共感できる人間として描く。「沈黙」の農民は封建制の犠牲者という型にはめられていない。誇り高く、自己主張している。

 西部劇では田舎町の町長や保安官も力ずくの支配者ではなく、しやれた冗談だって言う。「沈黙」の困りながらも肩肘を張っている奉行や通辞はそれに似ている。西部劇の型が流れ込むことで、時代劇に異質な視点を持ち込み、うまくいっている。日本人を生身の人間として描いている。

 カトリックの信仰の悩みは大多数の日本人にとって縁遠いものだが、スコセッシは本気で作っている。あの小説の最もよい理解者ではないか。

 棄教後のロドリゴの諦めたような顔をよくぞ描いたと思う。絶対的な神の世界から、別のおぞましい世界に行ってしまった人間が、そういう世界を理解して生きようとする。そこにこの映画の現代性がある。不寛容な宗教戦争の時代に、キリスト教世界の人間として生きるスコセッシの悩みが出ている。西洋の理念が世界の至る所で衝突を起こす今、真剣に考えなくてはいけないテーマだ。

 

 


 

マーティン・スコセッシ監督 問うべきは「人はなぜ生かされるのか」

 

 私がずっと考えてきたことの延長線上にこの映画はある。ニューヨークのイタリア移民の街が私を作った。そこでは神父が愛や善を説く一方で、多くの犯罪や暴力という現実があった。どうしてそれが混在するのか。私は苦しんだ。問うべきは、人はなぜ生かされているのかということだ。

 キチジローは弱き者はどこで生きればよいのかと問う。「沈黙」は弱さを否定せず、受け入れることを描く。みなが強くあることが文明を推博する唯一の手段ではない。今の世界で一番危険にさらされているのは若者だと思う。彼らは勝者が世界を制していくことしか見ていないから。それしか知らないのは危ない。

 原作の終章をどう解釈するかを長年考えた。第三者の視点で書かれたこの部分を何度も読み、実はロドリゴは完全に棄教していないというヒントを得た。キリスト教の勝利ではない。ロドリゴは度重なる「転び」の中で、自分の信念を獲得していったのではないか。

 「沈黙」を作りながら、信じることとは何なのかを探求してきたが、その過程こそが人生なのだと気づいた。人生は終わりなき探求だと思う。

(インタビューと記者会見での発言で構成)   

 

 

もどる