経済教室
TPP漂流が問う通商政策
日本は「自由貿易の砦」に 米英とのFTAも検討を
岩田一政 日本経済研究センター理事長
自由貿易は世界全体で資源配分を効率化
所得格差拡大の要因は機械化や技術進歩
米国が撤退してもTPPの断念は避けよ
トランプ次期米大統領は、通商政策の司令塔として創設する「国家通商会議」の議長にピーター・ナバロ米カリフォルニア大教授を任命した。
ナバロ教授は通商面のみならず、安全保障面でも対中国強硬派として知られる。中国の世界貿易機関(WTO)加盟をはじめとするこれまでの米国の中国に対する経済政策は、7万もの国内工場を閉鎖に追い込み、失業者や非正規雇用者を2400万人も増やし、貿易収支を3干億j以上悪化させたと論じている。
自由貿易が自国の雇用を奪い、中流階級の人々を貧困層へ押しやり、国内の所得格差を拡大させるとの恐れが、トランプ氏を大統領にまで押し上げた推進力の一つだった。
自由貿易は比較優位の原則により支えられている。比較優位は現存する人材や資本ストックなどの資源のみならず技術進歩、産業構造の変化に伴い動態的に変化する。比較優位を失った産業は衰退し、その産業で働く労働者の賃金は低下し、ミスマッチによる摩擦的な失業も発生する。
摩擦的失業の解消には、資源を比較優位のある産業に円滑に移動するための積極的な調整政策が必要だ。この意味で積極的な構造調整政策は、自由貿易体制の維持と表裏一体の関係にある。
筆者は2016年11月に太平洋圏の経済統合を議論する国際会議「太平洋貿易開発会議(PAFTAD)」に参加した。会議では、日本は比較優位を失った産業や生産工程をアジアに移転することで積極的な調整政策を採用したとの報告があった。日本が保護貿易に依存していないことをアジアのエコノミストが評価していることに励まされた。
重要なのは、自由貿易は世界全体でより効率的な資源配分を可能にすることで、たとえ一方的な自由化だったとしても貿易当事国の経済の効用水準を改善する「プラスサムゲーム」であるという点だ。ナバロ教授の見解は、自由貿易は敗者となる経済を衰退させる「ゼロサムゲーム」とみる点で異端だ。ところが、異端の見解を支持するかのような議論が戦わされている。
米ニューヨーク市立大学のブランコ・ミラノピッチ氏らは、世界の実質所得増加率の分布を調査し「象のグラフ」として提示した(図参照)。1988年から08年にかけての1人あたり実質所得増加率の分布は、中国やインドの経済発展に伴う中流階級の増加により、中央部分が象の背のように盛り上がっている。
同時に、先進国に相当する所得分布では、象の鼻先のように超富裕層の所得が突出して伸びている。一方、象の鼻の付け根に当たる先進国の中低所得層の実質所得の伸びはほぼゼロにとどまっている。
一見すると、あたかも貧しい国が、豊かな国の労働者の犠牲により成長したかのようだ。グローバリズムの進展に伴いグローバルな所得格差は縮小したものの、中国の台頭に伴い米国内での所得格差は拡大したようにみえる。
しかしこの図から日本、ロシア、バルト3国、東欧諸国を除くと、象の鼻の付け根部分の実質所得は大きく改善する(英シンクタンクのレゾリユーション財団)。先進国の中低所層層の実質所得の停滞は、米国内の中低所得層の低迷によるものというよりも、90年代後半以降の日本の長期停滞や体制移行期にあった旧ソ連邦の経済混迷によるところが大きい。また、先進国内部での所得格差についても、格差が拡大した国、不変の国、縮小した国があり、自由貿易の推進が一律に格差拡大をもたらしたとはいえない。
では自由貿易以外に、国内の所得格差を拡大させる要因は何だろうか。一つの要因は低スキルの労働者が機械にとって代わられることだ。ダグラス・アーウイン米ダートマス大教授は、製造業雇用の減少のうち85%をはオートメーションなど機械化によるものだと述べている。経済のデジタル化や第4次産業革命は、機械による労働の代替を一層強めることになろう。
また、仮に技術進歩が低スキルの労働者よりも高スキルの労働者の効率をより大きく改善するような形で進展しているとすれば、「偏りのある技術進歩」により賃金格差は拡大することになる。
さらに国際貿易に従事する企業と従事していない企業の間でパフォーマンスに大きな相違があるとすれば、質の異なる企業の間での賃金格差は大きなものとなる。とりわけ質の高い経営者と質の高い従業員がうまくマッチしている場合には、マッチしていない企業との格差は一層拡大することになる。ここで目指すべきは教育訓練や流動性の確保により、企業と従業員の質向上を推し進めることだ。
以上述べてきたように自由貿易は、米国を含めた先進国の製造業での雇用減少や賃金格差拡大の主要な要因とはいえない。むしろ自由貿易の拡大は、グローバルな所得水準を引き上げ、停滞気味の生産性を高め、長期停滞を脱するうえで不可欠な政策手段だ。
にもかかわらず、トランプ次期大統領は環太平洋経済連携協定(TPP)の撤回と北米自由貿易協定(NAFTA)の、再交渉を唱えている。メキシコと中国に対して35〜45%の関税を課し、中国を為替操件国に認定するとしている。
米大統領には、法律に基づき貿易政策に関する強大な権限を行使することが認められている。ニクソン大統領も71年に「対敵取引法」に基づいて一方的に10%の輸入課徴金を課したことがある。トランプ氏が選挙中の公約をそのまま実行に移すとすれば、大恐慌時の30年代のスムート・ホーレー関税法(関税引き上ば策)と同様に「貿易戦争」を引き起こすことになろう。
日本はTPPのみならず、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)などメガ自由貿易協定(FTA)の要に位置している。とりわけTPPは、自由貿易化率の高さばかりでなく、電子商取引や国有企業など国境を越えた規制に関連する包括的かつ先進的な協定だ。日本国内の改革や成長戦略でも依然として最優先されるべきプランAだ。
「中所得国のわな」ならびに「市場経済への転換のわな」に直面している中国が、2つのわなを脱して経済発展していくうえでも、先進的な協定は重要な役割を果たすことが期待できるはずだ。だが日中韓FTAやRCEPは自由化率などの面で、国内改革の十分な推進力とはなりにくい。
米国が撤退し「TPPマイナス1」となることがあっても、日本は安易にTPPを断念すべきではない。オバマ大統領も08年にはNAFTAの再交捗を唱えていた。しかし最終的に選択したのは、NAFTAの再交渉ではなくTPPの提案だった。
同時に、2国間協定を進めることは積極的なプランBになりうる。仮にトランプ新政権がTPPを承認せず、日本、との2国間交渉を望むのならば、日米FTA締結をためらうべき理由はない。カナダはNAFTAのみならず米国との間でFTAを結んでいる。
一方、英国がEU離脱を決定したとしても、日本はEUとのEPAを断念する必要はなく、EU離脱後の英国とのFTAも積極的に進めるべきだ。戦後のリベラルな経済秩序を支えた2つの先導国がその地位を自ら放棄する中で、日本は「自由貿易の砦」となるべきだ。