キー・コンピテンシーと大学


「学問の場」基本堅持を


大学は学生に職業生活や社会生活に必要な能力・資質をもっと身に付けさせるように迫られている。磯田文雄名古屋大学教授(元文部科学背高等教育局長)はそうした指摘を認めながらも、そもそも大学は学問をする場所ではないかと言う。

 

 これまでの大学教育は学部・学科等の縦割りで行われていたため、学生本位の教育活動の展開を妨げてきた。これからは、次代を担う若者に求められる職業生活や社会的自立に必要な能力は何かを見定め、その能力を育成する上で有効な知的活動や体験活動が何かという発想に基づき、教育プログラムを構築すべきである――。政府は各大学に対して、このようなプログラム中心で学位を与える「学士課程教育」への転換を求めている。

 学生に求められる能力の議論のもとになっているのが、経済協力開発機構(OECD)が示した「主要能力(キー・コンピテンシー)」という概念である。

 キー・コンピテンシーはOECDが2000年から始めた「生徒の学習到達度調査(PISA)」の概念的な枠組みとして定義された。90年代のヨーロッパで若年層の失業が社会問題となり、OECDが中心となって、雇用に必要な資質を定義し測定する方法が研究された。それが中等教育における学力水準の国際比較としてPISAテストにつながった。

 キー・コンビテンシーの概念は各国に大きな影響を与えた。世界の教育改革の潮流であり、国際的な学力評価・ランキングの指標で居り、現代の正統な教育の考え方であるとされている。


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 筑波大学の金子元久特命教授によると、コンピテンシーという言葉に込められる意味には2つの種類があるという。

 第1は、理論化、体系化された知識ではなく、具体的な職場の状況に応じて使われる一連の具体的な知識や技能を習得していることを指す場合。これは、職場技能ということができる。

 第2に、理論的・体系的知識の基盤となる一連の知識や態度、考え方などの基礎的な能力を指して、この言葉を用いる場合。金子教授はこれを基礎能力と呼んでいる。

 これまで、職場技能は企業内に経験的に蓄積されている暗黙の知識体系の中で育成され、基礎能力については大学入試への準備過程を通して形成されてきた。

 しかし、経済のグローバル化やIT化の進展により、各企業固有の職場技能育成のシステムは有効性を失い、職場技能の育成は大学の役割であるとの主張につながっていった。また、近年、大学への入学が一般的に容易になってきたことから、選抜体制による基礎能力形成機能が脆弱化し、大学におけるキー・コンピテンシー、すなわち基礎能力育成の必要性も議論されるようになった。

 このため、政府はキー・コンピテンシーを中核に据えて、学士課程教育の推進や国立大学の組織再編、職業教育に特化した新たな職業大学の創設などを進めているのである。

 ところで、キー・コンピテンシーで表される資質を雇用の前提とする経済とは、グローバル経済に他ならない。すなわち、グローバル化した現在の国際経済体制において、各国が経済競争に勝ち抜くために必要な人材に求められる資質能力、それがキー・コンピテンシーなのである。

 グローバル経済という国民国家を超えた国際経済体制に必要な人材の資質能力を求めているのであるから、キー・コンビテンシーが世界共通なのは当然である。そう考えると、世界の教育改革の潮流だからといって、キー・コンゼテンシーに基づく教育の課題についての吟味を怠ってはいけないことがわかる。

 第1に、現在のグローバル経済の次に来る新たな世界及び社会の在り方を探求し、その中に生きる未来の若者の教育を構想すべきである。現在のグローバル経済を前提にした体制は、有限な地球環境の破壊及び格差の急速な拡大という問題を内包しており、いずれ行き詰まらざるを得ないからである。

 第2に、不確定な未来の状況で応用可能な、すなわち「転移可能」な能力の育成を基本とすべきである。知識はすぐに時代遅れになるからキー・コンピテンシーなのだというが、キー・コンピテンシーは既に知られている状況におけるスキルであって、超複雑な世界に対して必要な手段を準備できない。


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 ー方で、学問は研究を通してそれまでの命題を批判的に検討し、新しい枠組みを提案する普遍性を有している。キー・コンピテンシーが有効に機能する場合もあると考えられるが、パラダイム転換やイノベーションに結び付く命題であればあるほど、学問との親和性が強くなる。

 第3に、キー・コンピテンシーをどのように育成するのか、具体的に解析する必要がある。大学は学問の体系に即して学問を教授し、それによって人材養成に貢献するように制度設計され、教職員が配置され、教育が運営されてきた。

 これに対し学士課程教育の推進は、これらの伝統的な構造を抜本的に変革するものでぁる。一部の大学では、それに必要な制度改革及び組織改葺に着手しているが、全般的には日本の大学はあまりにも経験不足である。

 大学は、人類の知的資産の蓄積・伝達・創造を行うことが基本的な役割である。大学はあくまでも学問をするところであるという基本を堅持しつつ、キー・コンピテンシーを求める社会の状況に適切に対応していくスタンスが求められている。

 



ポイント


社会で必要な力 産業界が求める

 大学の大衆化が進んだ結果、「大学卒」という肩書だけでは通用しなくなり、「大学で何を学んだか」 「大学は何を学ばせたか」が従前以上に問われるようになった。

 特に、産業界には「社会で必要となる資質・能力」を「学んでほしい」「学ばせてほしい」という声が強い。近年の文教政策もこの流れに沿っているが、一方でそれに反発する大学関係者も少なくない。高等教育行政の最高責任者だった磯田教授が「大学はあくまでも学問をするところ」と言う意味は重い。

 

 

 

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