妙風 論苑
伝説と真義
去る5月22日、山口市において宗教法人正信会の法華講全国大会が爽やかに行われたが、同じ日、明石市で正信会古川グループの全国大会も行われたようだ。
今は同グループの機関紙となった『継命』によると、古川議長は「御本尊の根本は『本門戒壇の大御本尊』です。つまり世界一ありがたい御本尊です」
と発言し、田村副議長は「仏法の根本とも根源とも拝す戒壇の御本尊」と発言しているが、これは御本尊に優劣やランクがあると言つているわけで、それが長年日蓮正宗が説いてきた説であったとしても、私たちはこれを肯定するわけにはいかない。
そもそも大聖人や日興上人が御本尊に優劣やランクを付けて論じられたことは一切なく、大小問わずいずれも重宝として取り扱われている。
また田村師は 「大石寺御歴代上人が書写された御本尊には、必ずお手本があるはずで、それが戒壇の御本尊なのであります」と言うのであるが、ちなみに大聖人滅後、現存中もっとも早い弘安10年10月13日日興上人書写の御本尊は、戒壇の御本尊と相貌も列衆も異なっている。その後の歴代上人の御本尊にしても、戒壇の御本尊をお手本にし、そのまま書写したとはいいがたいものがたくさんある。「御本尊に『書写之』とある『之』とは戒壇の御本尊のことである」というのは、戒壇の御本尊がすべての御本尊の根源とする後人のこじつけであろう。
こういうことを言うとすぐ「戒壇の御本尊を否定した」「慢心者だ」とレッテル貼りをしたり、排除しようと企む。まるで阿部宗門が正信会に対して採ってきた態度と同じである。
私たちが主張しているのは、数ある御本尊の中で戒壇の御本尊を大聖人の御当体とし、最上位に意義づけてこの御本尊からすべての御本尊に利益が行きわたるとする説は見直すべきだということである。歴代貫首が教団統制と信徒教導の上から長年戒壇の御本尊根本説を展開してきたのも事実だし、私たちもそう信じてきたが、宗祖の御書判にそんな教義はまったく見えないし、興・目両尊にもそのようなお考えを表示されたところはない。
では戒壇の御本尊は本来どういう意義の御本尊であるか。それは、日興門流の悲願として、いずれの日にか名実共に「本門事の戒壇」が建立されたとき、その戒壇に安置されるべき御本尊として、数ある大聖人の御本尊の中からこの御本尊を後世の門人が選定したと考えるのが妥当だろう。
そしてある時代までは秘蔵されてきたのであるが、やがてこの御本尊が他の御本尊とは特異なありがたい御本尊として宣伝され、ついには根源の御本尊として、これを信じることによってのみ他の御本尊にも功力が具わるとされるようになったのであろう。
伝説と真義は峻別されなければならない。