The Economist
自由な議論が脅かされている
現代はある意味、自由な言論の黄金時代だ。スマートフォンを使って数秒で地球の反対側の新聞が読める。投稿、更新されるツイートやフェイスブック、ブログは日に10億件以上だ。インターネットにアクセスできれば、誰でも好きなものを出版できる。
ところが、複数の監視団体は意見を言うことが以前より危険になっているという。確かに、言論の自由への締め付けが厳しくなった。表現の自由がなければ考えを戦わせることができず、世界は臆病で無知になる。
政府が言論統制やメディア検閲を強化
締め付けには3つの形がある。まず政府による抑圧が増えている。数ヵ国で言論統制が敷かれた。ソ連の崩壊後、ロシア国民は自由で闊達な議論を享受したが、プーチン氏の下で再び制限されている。面倒な質問をした記者は今は労働収容所に送られることはないが、命を奪われる。
中国の習近平国家主席は権力の座に就くやソーシャルメディアの検閲を強め、政府と意見を異にする人を何百人も逮捕し、大学で自由な議論を封じてマルクス主義の講義を増やした。中東ではアラブの春で言論の自由が生まれたが、シリアとリビアの現状はアラブの春以前より悪化している。エジプトでは「私以外の言うことは聞くな」と話す人間が実権を握る。
2つ目は、暗殺という形の検閲だ。メキシコでは犯罪や汚職の調査報道に携わる記者が拷問され、しばしば殺される。イスラム過激派は自分たちの信仰を侮辱した人物を虐殺する。バングラデシュでは、宗教と政治は分けて考えるべきだとブログで訴えた男性が路上で斬り殺され、フランスの漫画家は職場で射殺された。
3つ目は、誰でも侮辱されない権利があるという考え方だ。確かに気配りは人間関係には不可欠だ。だから何でもないように聞こえるが、これが権利になると、誰かを不愉快にさせる発言がないか、絶えず監視が必要になる。不快の感じ方は主観的なので、取り締まりは広範で窒息的になる。
欧米では多くの学生がその権力の行使に賛成している。男性はフェミニズムについて語る権利がないとか、白人が奴隷制度を語るのはおかしいなどと言って、人種や民族、障害者など特定の集団の利益を代弁する政治活動に熱中する学生もいる。別な学生はライス元米国務長官や、イスラム教に批判的な活動家アヤーン・ヒルシ・アリ氏などの著名人が、キャンパスで講演するのを阻止した。
大学は本来、学生が考え方を学ぶ場所だ。どんな意見でも自由に述べられないなら、大学は目的を果たせなくなる。
安全保障を盾に侵害する権威主義
ほぼすべての国には言論の自由を保護する法律がある。権威主義者はそれを踏みにじるのに、もっともらしく聞こえる口実を探す。1つは国家安全保障だ。ロシアは最近、ウクライナ政策を批判したブロガーに「過激主義」奨励の罪で5年の禁鍋刑を言い渡した。もう1つはヘイトスピーチだ。中国はチベット独立運動家を「民族憎悪をあおった」として投獄する。サウジアラビアは冒瀆者をむち打ち刑に処す。インドでは宗教、人種、カーストなどあらゆる事柄で社会の調和を乱したとみなされれば、最長3年間収監される。
人権活動家が抑圧的な体制下で起きていることに抗議の声をあげれば、その独裁者はフランスやスペインなどの自由民主主義国家でもテロを礼賛、擁護する者を犯罪者として扱うし、多くの欧米諸国が宗教を侮辱したり人種的な憎悪をあおったりすることを犯罪視していると指摘する。
トルコの強権的指導者エルドアン大統領は国内外を問わず、自身の人格や信仰、政策への侮辱約言動を一切容認しない。今年3月、ドイツのコメディアンがエルドアン氏は「ヤギとセックスし、少数派を抑圧する」という風刺詩を朗読した。エルドアン氏は外国の国家元首を侮辱することを禁じたドイツの古い法律を持ち出し、抗議した。驚いたことに、ドイツのメルケル首相は検察当局の捜査を認めた。さらに驚いたことに、ドイツ以外にも欧州9カ国にまだ似た法律があり、13カ国は自国の元首への侮辱的発言を禁じていた。
多くの国の世論調査を見ると、言論の自由は支持されているが、条件付きだ。なぜ自由な表現がすべての自由の基盤になるのか、詳しく説明する必要がある。政治家は判断を誤れば批判にさらされるべきだ。
どんなときでも、自由な議論を通じ、良い考えと悪い考えがふるい分けられる。当然視されてきたことを疑わない限り、科学の発達はない。タブーは理解を妨げる。中国政府がエコノミストに甘い経済予測を出させれば、政策立案自体がお粗末になる。米国の大学の社会学部が左派の教授ばかり採用したら、彼らの研究は取り上げるには値しない。
自由に発言する権利は法律でほぼ絶対的に守られるべきだ。もちろん、国家には秘密にしておかなければならないことがある。言論の自由は核ミサイルの発射コードを公表する権利ではない。だが多くの場合、過激な活動家の主張には抵抗すべきだ。
暴力の扇動は禁じる必要がある。しかしその定義は、同調者をあおって暴力を振るわせたり、発言が即座に影響を及ぼしたりする場合などに限定しなければならない。ユダヤ教会の外にいる暴徒に「ユダヤ人を殺そう」と叫んではいけない。ほとんど無名のフェイスブックに「ユダヤ人は全員死ねばいい」と酔った勢いで書き込むことはこの定義の範囲外だろう。
暴力の扇動抑制、深刻な脅威に絞れ
政情が不安定な国と安定した民主主義国では、同じ暴力をあおる言葉でも意味合いが異なる真が、暴力の扇動を禁じるべきだという原則は変わらない。警察はパソコンやメガホンを持った者を全員逮捕するのではなく、深刻で切迫した脅威に対処すべきだ。
米国のフェイスブックやツイッターなどの巨大なデジタル企業
は、自社の交流サイトでどんなことが投稿され満と好ましくないかを自由に決められるのが望ましい。私立大学は法律の範囲内でなら、学生に言論規制を敷いて構わないだろう。悪態やポルノ、無神論の表明を禁じるキリスト教系の大学が気に入らなければ、よそへ行けばいい。しかし公立大学や、学生の知的成長を支援しようという大学はすべて、学生が耳障りな意見に触れるのを恐れてはいけない。キャンパスの外に一歩出れば、不快に感じ腹が立つことは多い。学生たちは平和的な言葉や理性を使い、立ち向かっていくことを学ばねばならない。
賛成できない意見を決して封じようとするな。不快な発言には言葉で応じろ。力に頼ることなく議論に勝て。そしてもっとずぶとい神経を持て。これは誰にとっても良い規則だ。
(6月4日号)