人工知能と美術家


李  禹 煥(リー・ウーファン)


 いよいよ人工知能(AI)が活躍する時代が姶まった。車の自動運転がさかんに試されているらしい。学術論文から詩や小説まで、多方面に渡って怪しげな(?)書き物が流行り出している。音楽や美術、建築でも芸術家とロボットと共同作業で、作曲したり絵を措いたり設計図を作ったりしている例は少なくない。私は美術家としてこの現象を早くから興味深く見守っている。

 ところで最近芸術畑のみならず、囲碁の世界でもAIと強豪棋士との対局が話題になった。棋士が四敗一勝しAIの圧倒的な強さが証明された。そもそも囲碁の歴史は千年を越えるが、AIは開発されてまだ日は浅い。それなのについに人間の作った機械に、人間が敗れるというアイロニーを経験することになったかと思うと複雑な心境である。このような現象は、先々増え続けるだろうことを了解せねばなるまい。


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 AIは情報を入力したコンピュータである。蓄積された膨大な量のデータが、ソフトなのだ。しかし一般論として、どんなに優れた大量のデータであってもそれは限度を持つ。またAIにあれこれ「学習」をさせるにしても、生き物の場合のようにはいかない。それは人間の知識の枠組みを越えるものでないからだ。このような事情も絡んで、AIの初期の段階ではいろいろ躓きがあったと察せられる。

 とはいえスピーディなコンピュータの進化のなかで、どんどん異変が起こりはじめた。入力された情報自体の発露をはみでて、情報同士の刺激や衝突から新たに情報を生んだり、ついには外部世界と関わったりしうる可能性が出てきたからだ。そこから対応力とも言うべき他とのさまざまな反応のメカニズムが開発されれば、AIが賢い生きものと化すことは火を見るより明らかだろう。

 AIに考える力、自発性を持たせることが出来るとしてもその範囲は限られよう。問題は他との関係作用で応答の技能が発揮された場合である。棋士がどんな妙手を打ったとしても、AIがその先を読んでしまう事態がすでに訪れている。AIに勝つ方法は対応関係の外に立つことであろうが、囲碁のシステムからして難しい話になってしまう。コンピュータを狂わすほどのトンチンカンな創意的な碁が成り立つかどうか。


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 かつて私は「ロボットと画家」(『余白の芸術』所収)という小文のなかで、画家の恣意性について述べたことがある。ロポットはコンセプト通りに描くが、画家の制作は往々にしてそうではないという指摘だった。画家はコンセプトや下図が用意されていても、描く時さまざまな条件の変化、頭の働き、身体の調子や気分の揺れのなかで制作を進める。言い換えれば、気まぐれとは言えない鋭いひらめきや何かの大きな力が、制作中絶えず作動しているということである。

 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を例に取るまでもなく、歴代名画と称される絵を]線で透視してみると、何度も図像を変更したものが多い。現代美術のなかには、描いたり消したり、意外な物体を貼り付けたりして、制作過程で意図が反転したり意味が不透明になったりするものもある。そして古今を問わず、表面的に理路整然を装っている絵でも、よく見ると異様な狂気に覆われているものさえ少なくない。

 表現行為は着実なコンセプトの遂行やそのためのコントロールを強いる意識と共に、それとは反対の予期しない出会い、衝動的な欲望や狂気を孕んだ自由な想像力を伴う。言うなれば、画家は考えと行為を整備しつつ平常心を保とうと務めるが、常に底辺に渦巻いている得体の知れないマグマに突き上げられているのである。この二重性、矛盾律から両義性や窒息性が働き、作品に生気とダイナミズムを生んでいることは意外と知られていない。

 画家によっては、とくに現代美術においては、あえて素材や行為が暴れるに要せた表現が多い。コンピュータで描いたものを手作業で引っ掻き回すこともある。正確な描写の上に写真や物体を組み合わせたものもある。このようなことはいわば近代までの理性的なコンテキスト主義に抗して、感情や物質や諸外部とのぶつかり合いをあえて受け入れようとする、まさに現代という時代の自由から来たものと言っていい。

 それ故現代実術の多くの作家は、撤密なプランニングを立てたり、時にAIを活用したりしつつ、わざわざ不用意なことを平気で行う。その実いつの時代だって美術の表現は、意識の織り成した観念と共に言いようのない不気味な何かが重なり合うものだ。美術家はこれから意識の先端でありその総体であるAIとも関わるが、一層外界と向き合い、計り知れない無意識の海をもいつとなく吸い上げて行くであろう。


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 コンピュータの発明は近代の産物であり、それは人類史の輝かしい成果に違いない。私はそれは、人間の知的活動や日常生括を豊かにし、より便利な社会を作るに役立つ道具であることを信じてやまない。もちろん危険や暴走を招く方向のAIの開発には用心せねばなるまい。いずれにしても万事がAIで解決したり、人間がお手上げの状態になったりする気はしない。何よりも人工物のコンピュータに対して、人間は生命体の誇りを持つ自覚の存在だからなのだ。

 人間の考えや意志には限界があっても、世界との出会いは無限である。つまり未知への好奇心に燃える生きた存在であること。そして絶えず無意識の刺激に突き動かされる表現を自覚する時、人間は決してAIの侵すことの出来ない聖域に思えてならない。創意力の象徴のような美術においては「ますます作家の生身の存在の働きが光ると、私は思うのである。

 

 

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