その本当は本当か
木内昇
3年ほど前から毎週、ソフトボールをしている。地元のチームに入れていただいたのだ。高校、大学とこの競技に勤しんだので腕には多少の覚えがあった。打撃、走塁、守備ともに当時の記憶も鮮明だ。よって私は入部初日、意気揚々とグラウンド入りしたのである。
が、その自信は即刻木っ端微塵となる。打てない、走れない、投げられないの3重苦。かつて習得したピッチングフォームすら再現できず、3球投じただけでスネとふくらはぎが同時につった。簡単なフライ捕球も目測を誤り、スライディングのはずがもんどりうっての転倒となる。20数年のインターバルは、途轍もなく大きかったのだ。
この場合、素直に衰えを認めて一から鍛え直すのが得策である。そうと知りながら私は動揺のあまり、こんなさもしい言い訳を口にしたのだった。
「これは、本当の私じゃない」
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本当の私はもっと軽やかに的確に動けるのだ、と。チームメイトからすれば迷惑千万な話だろう。なにしろ実際には、なにひとつできていないのだ。「本当は違う」と、声高に申告されたところで、戦力にならないことに変わりはないのだから。私だって自分の主張が無意味なことくらい重々承知している。それでも、我のみぞ知る「本当」を念仏のごとく唱えずにはいられなかったのだ。
が、冷静になったとき、はたと気がついた。私がソフトボールに取り組んだのは、学生時代だけ。期間にすれば7年弱である。人生におけるほんの一時の姿を、「本当の私」として仰々しく触れ回るのは、さすがに冒険が過ぎやしまいか、と。
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これは意外と、誰でも陥りがちな妄動という気もしている。例えば「昔はかなりモテてさ」 「営業部のエースって言われてた」なぞとのたまうのも、虚像と化んた自身に固執し、実像から目を背けているに等しい行いと言えよう。きっとみな少なからずしでかしているのだ、と自らを慰める昨今である。
かつて就職したての頃へ私は会社で萎縮し、気を使い、小さくなっていた。学生時代はあれほど天真欄漫に楽しく周囲と関わっていたのに、上司や先輩の顔色ばかりうかがって、本当の自分が出せないことに焦れていたのだ。
苦しくなると、よく夏目軟石の『坊っちゃん』を読んだ。どんな環境でも、誰が相手でも、生のままを貫く坊っちゃんがひたすらうらやましかった。ただ彼はそれゆえ、順調とは言い難い社会生活を送る。教師として赴任した松山の中学校で、生徒にからかわれ、同僚や上司とも衝突を繰り返すのだ。
もっと滑らかに社会を渡る方法はいくらでもあったろう。例えば、環境にふさわしいキャラを設定、演じることで周囲との乳轢を巧みに回避するような。鎧をまとえば、自身は傷つかない。だって、突放しても否定されてもキャラなのだから。旗色が悪くなったら、違うキャラを作り上げて、そつなく周りと調和すれば済む話である。なんとクレバーで無駄のない生き方だろう。坊っちゃんもこのスキルさえあれば、教頭の赤シャツや画学教師の野だとやり合って、学校を辞める羽目にはならなかったのに。
しかし、だ。器用に鎧を着込んだ坊っちゃんに、社会人一年目だった私は魅力を感じたろうか。否。きっと清になり代わり、笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ頬張りつつ、彼にこう問いかけたはずである。
「坊っちゃんは、本当にそれでおよろしいんですか?」
もちろん社会人たる者、礼儀を重んじTPOに沿った態度をとることは必要である。常に自己主張せよ、という話ではない。けれど仕事や人と対する中で、「自分を守る」ことに重きを置き過ぎてはつまらないように思う。その場はうまくしのげても、上っ面な行いを重ねていくと、歳をとったとき、発する言葉に温度のない、見所の薄い人間になり果てる気がするのだ。
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抜き身の自分で世の中を渡るのは覚悟がいる。なぜならその道程はどうしたって、恥ずかしいこと情けないこと格好悪いことで埋め尽くされてしまうからだ。事実、私がそうである。思い起こして惚れ惚れする事柄など皆無、「なぜああしたのか」 「なんということを言ってしまったのか」と、浮かんでくるのは後悔ばかりでうんざりする。
けれど存外、その失敗にこそ自分らしさが宿っていて、過ぎてみれば妙に愛おしく感じられるのは不思議である。もしかするとそれは、仕事であれ恋愛であれ、体裁も外聞もお構いなしに、体当たりでなにかに取り組んだ瞬間だったからかもしれない。もちろん傷を負うこともある。が、それものちのち自らを成長させる糧になったりして、長い目で見れば無駄なことなどひとつもないと心から思えるのだ。
多くの場合、自らが「本当の自分」と信じるのは、「こうありたい」という理想の姿なのではないか。逆に言えば、誰しも自分が「本当」と思う場所から少し外れた軌道をたどって生きている。一時は「本当」だったとしても、それを維持するのは容易ではないからだ。
でもだからこそ、生きている限り理想の在り方を求め、そこへ向けて努める甲斐があるように思う。抜き身の自分で世と接しながら。ほうぼうで恥をさらして、あちこちに傷を作りながら。
ソフトボールの練習は毎週日曜日である。まさに日経新聞読者の皆さんが、熱いコーヒーなど飲みながら、この欄を読んでくつろがれている今このとき、私はグラウンドで「本当の私」を手に入れるべく右往左往しているはずである。雨が降っていなければ。