大人になるためのリベラルアーツ



複数の立場自由に往復


 東京大学教養学部の藤垣裕子副学部長は、後期教養教育は専門分野や時代の枠を越えて複数のコミュニティーを往復する力を付け、自らを解放させることだという。

 

 「本授業は私にとって議論することの意味を考えるきっかけになった」「何度もディスカッショシを積み重ねることによって、自分の言いたいことがすんなりと言語化できる回数が増え、おのずと他者の主張との交渉もできるようになった」――。昨年度の授業を受けた学生たちのリポートにあった記述である。

 東京大学の総合的教育改革の一環として新設された後期教養科目(専門を学んだ後の教養教育)の中の1科目「異分野交流・多分野協力論」は、に示した12回分のテーマを用意し、毎回、議論形式で授業を行った。


 教師の用意した課題文および論点を授業の前の週に渡し、学生はl週間考えた後に授業の場で論点に沿って議論を行うことになる。法学部、工学部、文学部など学部の枠を越えて他の専門分野の人と議論することを通して、学生は冒頭のリポートの記述に見られるような変化をみせた。



  □ □ 口

 授業のなかで徹底したのば@自分のやっている仕事(あるいは学問)および自分の持っている知識が社会の中でどういう意味をもつかA自分のやっている仕事(あるいは学問)を全く専門の異なる人にどう伝えるかB具体的な問題に対処するときに他の分野の人とどのように協力できるか――の3点について、毎回の具体的テーマの中で掘り下げて考えてみることである。

 また、各回で「問いを分析する」 「言葉の一つ一つを吟味する」 「問いを分類する」 「論を組み立てる」といった作業を行った。例えば、第2回のグローバル人材の問いでは、そもそもグローバルとは何か、人材とは何かを考えた。この作業の後、「立場を支える根拠を明らかにする」 「前提を問う」 「立場を入れ替えてみる」 「複数の立場の往復」ということをロールプレイや思考実験の中で経験してもらった。

 第5回の代理母の問いで、依頼者、代理母、担当医、子の人権擁護者、あっせん業者といった役を演じることや、第8回の問いをジャーナリスト、時の首相、政府の一員、一国民の立場から考えることなどがそれにあたる。

 教養とは知識の量ではなく、いついかなるときにでも自らの知識を総動員して他者に説明でき、的確な判断を下せる能力のことである。リベラルアーツの理念に基づく教養教育とは、人間が独立した自由な人格であるために身につける学芸のことを指す。

 前述した3点を考えることによって専門分野による思考の制約について考えてみること、そして各回で先に紹介した思考演習を積むことによって、とらわれている常識から思考を解放して「こころを開く」ことの実践を行った。


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 よく、語学や歴史や古典を学ぶことが教養と言われる。しかし、それらを学んで知識を蓄積することがそのまま教養につながるわけではない。語学教育は「日本語で理解し、説明するときの日本語でのものの見方」と「外国語で理解、説明するときの外国語でのものの見方」の間を往復することを意味する。同じ概念を示すはずの言葉が、実は言語によって意味の分節の仕方が異なり、世界の把握の仕方が異なることを学んでこそ、日本語の制約から自由になれるのである。

 同様に歴史を学ぶことは「現代の文脈でのみ理解し、説明するときのものの見方」と「歴史的背景を含んだ文脈で理解し、説明するときのものの見方」との間の往復の力をつけてこそ教養となる。古典を学ぶことはテキストの書かれた時代と現代との往復、およびテキストの書かれた国と日本との間の往復である。

 このように考えると、後期教養教育とは枠を越えて複数のコミュニティーを往復する力をつけ、そのことによって自らを相対化する力をつけ、制約から解放されること、ということができるだろう。こういった思考演習はガラパゴス社会といわれる日本社会、すなわち組織や制度をいったん確立すると壁を作ってしまい相互交流できなくなる特徴をもつ社会に対し、風穴を開ける力を育成することになるだろう。

 この往復の力は、分野と分野の間の協力や多様な知の結集にも役立つ。例えば東日本大震災直後に、日本は地震の研究も津波の研究も原子力の研究もー流であったにもかかわらず、それらの分野の相互協力においては一流ではなかった事実が、日本学術会議等でも省みられた。多様な知を結集するためには分野間往復の力が不可欠である。

 実は往復の力は、日々具体と抽象の間を往復する企業経営者に必須の力である、とある経営者が書いている。さらに往復の力は、成熟した市民を育成することにもつながる。何でも専門家や政府の決めたことに従うのではなく、一人ひとりの市民が選択しなくてはならない場面は多々ある。

 例えば予防接種は、数10年前は全員受けることが国によって義務化されていたが、現在は親が判断する。そのようなとき、自ら情報を集め、利点と欠点を吟味し、判断を下さねばならない。ここで必要となる情報収集能力、知識をひとごとととらえず「自分ごと」化し、判断を下す能力は、教養と無関係ではない。

 ひいては環境や健康、安全等にかかわる日本の将来に関する国の意思決定を他人まかせにせず、自ら調べて考える力を養い、他者と協力する力を養う上でも往復の力は必須であり、それだけ後期教養教育が持つ意義は大きい。






ポイント 


議論促す授業 学生には新鮮


 藤垣教授らが取り上げたテーマは、唯一の正解が簡単に見つからない問いばかりである。そんなテーマを真剣に考え議論する授業は、専門課程の勉強に追われる学生に新鮮に映ることだろう。
 ただ、本来、大学とは、学生同士が多様なテーマで自由に議論を戦わせ、切磋琢磨する場所ではなかったかとも思う。そうした場″のお膳立てまで求められているのが、今日の大学の現実なのかもしれない。

 

 

 

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