航空機設計で人の役に        鳥養鶴雄さんに聞く

全体を見回し部分を見る   自前の経験積重ね

YS11を降りる人を見て、感無量

 日本人が独自の超音速機を開発した過去を覚えている人は少ない。鳥養鶴雄さん(85)はその機体、三菱T2をはじめ多くの自衛隊機、旅客機YS11やボーイング777まで、企業や国の垣根を越え設計に携わった。MRJやホンダジェットが世界をうかがう今も、エネルギッシュに航空評論を書き続ける。

 「少し前、民間航路から引退する直前のYS11が、奄美大島の空港に着陸した姿を見て胸が詰まりました。プロペラが止まり、ドアが開き、自動タラップが延びて乗客が降りてきます。親子連れもいれば年配の人もいて、にこにこと出迎えの人に手を振ります。YS11の尾翼やタラップは、若い私が設計しました。人の役に立っているなあ、旅客機は素晴らしいなあ、と感じ、誇りがこみ上げました」

 「私は民間機だけ設計して来たわけではありません。実は自衛隊機が多いのです。これには理由があります。占領下の日本は1952年まで研究を含む航空関連の事業などが全面禁止され、ジェット時代の世界から決定的に取り残されました。航空機設計を志していた私もへ大学は造船工学科に進みました」

 「その頃の私は、多くの若者と同様、進歩的な考えに共鳴していました。そんな私に、教授が声をかけたのです。『鳥養君は再軍備反対だろうが、日本の航空産業は防衛需要がないと生きられない。腹を決められないなら航空に行くんじゃない』と。52年の英国ファンボロー航空ショーを見て来た方の講演にも粛然としました。ショーでは試作機が空中分解し、見物客が29人も亡くなりましたが、英国は展示機を飛ばし続けたのです。航空に国の未来をかける意思の表れです。そんな中で日本の航空技術復活には、防衛需要が必要だったといえるのです」

 日本の航空機産業は、電機や自動車と違い、民間層要があまり期待できない。しかし技術で欧米にキャッチアップする熱い思いはあった。少ない開発機会を生かすため、YS11を手始めに各社が技術者を出し合うオールジャパン方式が取られた。

 「56年に富士重工に入り、初の国産のジェット練習機、T1の設計に参加しました。上司からは『君は船の水密構造を知っているから気密操縦席を設計してくれ』と言われただけ。周囲も私も、ジェットという未知の世界への挑戦に夢中でした」
 「オールジャパン方式の良いところは、他社の技術者や大先輩と共に仕事ができて、技術や知見、仲間意識が広がることです。各メーカーにはそれぞれ違う流儀があり、意見対立も起きます。設計の心は工夫ですから、できないと思ったら負けです。一方で私たち技術者はデータで考える人種なので、納得さえすれば『そうか』となります。そして考え方や技術が高いレベルで平準化されるのです。現在ではボーイングなど海外メーカーと共同開発を組むことが増えましたが、この方式から得るものは多いと思います」

 技術者は、誇りを忘れないでほしい

 「今の航空機は設計に多くの技術者が関係するので、個人が発想できる範囲は狭いと考えがちです。けれどそれは違います。全体を見回し、自分の分野が、全体にどう影響するかを常に考えるべきなのです。それがなければ面白くないでしょう。私はYS11などで尾翼の設計をしましたが、尾翼は全体に大きく関係します。大切なのは常に全体を見回す心。これは、航空機にとどまらず、モノづくり全般に通じることです」

 「苦労が実を結び、自分が関係した機体が飛ぶのを見るのは、うれしいものです。その気持ちは、自分が作った紙飛行機や模型飛行機が良く飛んだときと同じ。最初はあまり飛ばなくても、手を加えてよく飛ぶようになってくれば『母さん見てくれ』という気持ちになる。そして、できたものが人の役に立つ。それを誇らしいと感じる心。技術者誰もが大切にしなければならないものです」

 70年前後にマッハ1.6を出す超音速練習機、T2開発に参加。鳥養さんはもう一息で欧米にキャッチアップできると思った。

 「T2では超音速の要である主翼の設計に当たりました。けれどその自信は、75年のバリュアショーで米国のF16戦闘機、米国の空軍基地でB1爆撃機を見た時にたたきつぶされました。開発力、発想力、研究設備、製造規模すべてで、まだまだ比較にならない。では、世界から水をあけられた分野での国内開発は無意味でしょうか? そんなことはありません。国際共同開発では、規模は小さくても自分たちも相手と同じ経験を自前でし、同じ苦労を乗り越えて来たんだと言なければ、相手は自分の技術を見せてくれないものです。『自前の技術と経験』こそ大事です」

 MRJやホンダジェットなど最近、国産機が再び目立つ。 「若い人ががんばってくれるのはとてもうれしい。ひとつ気になるのが、開発で自分の解析を信じ過ぎて、視野が狭くなっていないかということです。全体を幅広く見渡し、実績や技術を比較しながら開発する心、人の役に立つものを作りだすという誇りを忘れないでほしいのです」

 

とりかい・つるお 1931年横浜市生まれ。
53年横浜国立大造船工学科卒。56年富士重工業入社。日本航空機製造でYS11、の設計、三菱重工業でT2の設計などに参加後、富士重工航空機技術本部長。日本航空機開発協会常務理事や、日本航空宇宙学会副会長を歴任。東京大、横浜国立大、宇都宮大で設計を教えた。

 


 

 MRJ、ホンダジェット…


産業の先行きに期待と不安


 鳥養さんは埼玉県所沢市の所沢航空発祥記念館に展示されているTlに近付くと、機体に隠されたボタンをひょいと押した。カチッと音がして機体に上るための足かけが飛び出す。隅々まで知り尽くした、ごく自然な振る舞いだった。

 現役を離れた今も、鳥養さんの名は、中学生から高齢者までプロ・アマチュアを問わず多くのファンに知られる。文林堂の「世界の傑作機」シリーズで毎回のように、図表と数式をわかりやすく駆使した長文の技術比較論を書き続けているほか、多数の著書を持っからだ。

 そんな鳥養さんはMRJやホンダジェットの未来をそ
楽観してはいない。「期待しているが、ボンバルディアなどライバル企業は、顧客の地域航空会社と共に育ってきた会社ばかり。割って入るのは大変だと思う」。YS11の苦闘を直接知るだけに、後輩たちを思いやる気持ちがにじむ。

 

 

 

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