ニュース複眼 司法が止めた原発
稼働中の原子力発電所をただちに止める初めての司法判断が出た。大津地方裁判所は9日、高浜3、4号機(福井県)の運転停止を命じる仮処分決定を出し、再稼働で収益改善や電力の安定供給を期待していた関西電力と政府に衝撃が走った。
電力会社の経営やエネルギー政策を揺さぶる司法判断をどう受け止めるべきか。
リスク巡り国民的議論を
長崎大教授 鈴木達治郎氏
大津地裁の決定が司法判断として適切かどうかはわからないが、稼働中の原発に停止を命じたことは画期的だと受け止めている。停止による電力会社や社会のコストは大きいが、事故が起きた時のコストとの差し引きを判断したと解釈できる。当然、賛否が分かれるだろう。
本来、原発の規制基準を決める際の「どこまでリスクを下げれば安全なのか」という考え方自体、技術論や法律論だけでは決められない。利害関係者や市民も含めた議論が必要なはずだ。今回の判断についても意見が分かれるとすれば、社会として「どこまでリスクを下げればよいのか」に関する合意ができていないということではないか。
「規制基準を満たしていれば事故は起きない」というのが、東京電力福島第1原発の事故以前の考え方だった。それが十分でなかったことが分かった以上、規制基準を超えてリスクを下げる努力が電力会社に求められる。
リスクの受け入れはその利益の大きさとも比べて、社会が判断するものだ。その事続きが十分でないと、今のように政府や電力が再稼働を決定した後に「説明して納得してもらう」あるいは「説得する」ことになる。リスク・コミュニケーションは双方向であるべきで、一方的な説明や説得では信頼が得られない。国民、住民に対話を通じて丁寧に情報を公開し、必要であれば安全対策や規制基準も変えていく姿勢が求められる。
原発に限らず司法が科学的課題に判断を示すことは、今後もますます増えるだろう。司法と科学の関係は非常に難しい。科学も不確実であり、司法の判断も主観がどうしても入る。裁判にかかわる科学者の在り方についても、もっと議論があっていい。
原発の運転差し止めは国の政策に影響を及ぼしうるが、国民の信頼がなければ政策は円滑に進まない。司法判断も社会の意思決定システムの一部で排除はできない。「国民的議論」を省略もたつけが回ってきているのではないか。一見、遠回りにみえるが、意思決定プロセスを再構築し、議論を尽くすことが求められている。
法的・科学的根拠足りず
中央大法科大学院教授 升田純氏
司法手続きの「仮処分」とは、正式な裁判の判決の確定まで待っていると、回復できない損害や権利侵害などが生じる場合に、裁判所が暫定的な取り扱いを決めるものだ。制度上は稼働中の原子力発電所を止めるといった重大な決定も可能となる。
一方で正式な裁判と違い、仮処分で証人尋問や鑑定は行われず、証拠は限定される。原発問題のように高度な科学的知見が必要で、影響も大きい事案を仮処分で取り扱うべきなのかどうか、裁判所には慎重な判断が求められる。
福島第1原発の事故後、原発の安全性をめぐり地裁ごとに司法判断が分かれている。
2014年、福井地裁が関西電力大飯原発の再稼働差し止めの判決を出した。15年には同地裁の同じ裁判長が関電高浜原発の差し止めを命じる仮処分決定をしたが、同地裁の別の裁判長は異議審で決定を取り消した。鹿児島地裁は同年、九州電力川内原発の再稼働差し止めの仮処分申請を却下した。
今回の仮処分決定で稼働中の高浜原発の運転を差し止めた大津地裁は、関電側に対して「安全性の主張や説明が尽くされていない」と指摘する一方、関電の対応や原子力規制委員会の新しい規制基準のどこが問題なのかについて具体的な執明がほとんどない。なぜ仮処分が必要なのかという記述も少なく、疑問が残ると考える。
福島原発の事故後、原発に求められる安全対策について、さまざまな立場の専門家が慎重に議論して新規制基準を作った。規制要は新基準に適合するかどうかを時間をかけて審査し、再稼働の可否を判断している。裁判所は抽象的な危慎だけで判断せず、法的、科学的な根拠を具体的に示すべきだ。
各地の原発再稼働の差し止め裁判や仮処分では、各裁判所が独自に判断するため、新規制基準への評価が分かれた状態が続く可能性もある。法令解釈、科学的根拠がわかりにくい内容の判決や決定が相次げば、裁判所への国民の信瓶が損なわれかねない。説得力のある司法判断が下されることが期待される。
政府・規制委にも説明責任
エネルギー総合工学研究所研究顧問 西脇由弘氏
大津地裁の決定は関西電力側の説明が不十分だと指摘した。しかし、原子力規制委員会は安全審査で適合と判断しており、電力会社だけの問題とはいえない。規制委も、自らが策定した安全規制などを国民に説明できていない。
規制委の田中俊一委員長は「規制基準に適合していると判断した原発について、100%の安全はない」と話している。審査を通っても安全といえないとなると、世の中は疑問に思う。あの発言はさすがに無責任だと感じた。
政府は福島第1原発事故後に策定した安全規制を世界最高水準としているが、過去の知見をどう生かし、どんな思想に基づいたのか根拠がわからない。原発の安全性について一定の目標を定めるセーフティーゴール(安全目標)の視点もなく、どの程度安全性を達成しているのか国民に伝わりにくい。
米原子力規制委員会は1979年のスリーマイル島の事散を教訓に、安全目標の議論を進め、80年代に導入した。英国では当局も推進側も関係者が一堂に会し、規制のあり方を議論している。日本でも原発の専門家らを集めた公開の会議などを開き、改めて安全目標を盛り込んだ規制の導入を検討すべきだ。
裁判所の姿勢にも課題はある。大津地裁は関電の説明が足りないと主張したが、具体的に何が足りないのか決定文だけで読み取るのは困難だ。裁判所側が判断した理由を具体的に示さないと、電力会社も対応に苦慮する。
原子力が絡む民事訴訟では専門知識も必要だ。裁判官が最先端の技術的な領域を深く理解し、判断するには難しい面もあるだろう。司法研修所などを借用して、裁判官が原発訴訟の過去の事例を学び、結論に至ったプロセスなどを議論すべきだろう。
大津地裁の決定は稼働した原発の運転を差し止めており、政府のエネルギー政策への影響は大きい。地域住民の安全に絡む防災計画などは政府も責任を負う。電力会社に任せるだけでなく、政府も防災計画などについて国民に対する説明責任を尽くすべきだ。
独は憲法裁の役割大きく
弁護士 M・マスラトン氏
三権分立が定められているドイツで裁判所は(原則として)政治的な決定はしない。政治の意思決定に影響を与えるような高度な規範が争点となる場合、(独立して高い権威を持つ)連邦憲法裁判所の判断が大きな役割を果たす。
脱原発政策を巡って、ドイツの電力大手が連邦政府を訴えている。これを理解するには歴史的な背景をおさえておく必要がある。
2002年に当時の与党、社会民主党(SPD)と緑の党が段階的な脱原発を決定した。政府と四大電力会社が、原発は割り当てられた量を稼働することで合意し、原子力法が改正された。09年の政権交代で誕生した、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党の連立政権は、法改正で原発の稼働期問の延長を承認した。
だが11年3月の福島第1原発の事故が転換点となり、政権はドイツの原発のリスクと政策を再評価し、稼働期間を延長する方針は撤回された。原子力法の改正で、すべての原発の総合的な安全審査とモラトリアム(一時停止)が決まり、まず最も古い原発7基が3カ月間停止された。これに対し電力会社のエーオン、RWEなどは基本的な権利の侵害だと主張してきた。原発が停止したにもかかわらず、核燃料税の徴収が続き、経済的な補償がないことが争点になってきた。
RWEのヘッセン州にあるビブリス原発の停止については、14年に連邦行政裁判所で「違法」との判決が確定した(電力側の勝訴)。この後、RWEは州と連邦政府に補償を求める訴訟を起こした。原発の停止よりも金銭面の補償を求めることに訴訟の軸足が移っており、15、16日には連邦憲法裁判所でエーオン、RWEなど3社の訴訟が審理されているところだ。
電力会社の業績が軒並み悪化し、各社の配当にも影響が出ている。では投資家が連邦政府を訴えられるだろうか。配当の期待まで投資家が保護されているかば疑問で、相当しっかりした法的根拠が求められるだろう。
アンカー
再稼働なぜ必要か 説得の努力尽くせ
原子力規制委員会の審査を通過し、政府と自治体が住民の避難計画をまとめ、地元の首長が同意する。福島第1原発の事故から5年で浮かんできた原発再稼働の「方程式」は、大津地裁の決定で解が見えにくくなった。今後も運転差し止めを求める訴訟や仮処分の判断は各地で相次ぐ。
メルケル政権が脱原発を掲げたドイツも司法の場で手探りを続ける。一時に比べれば安全対策が充実したといえる日本もまだ悩みの過程にあるはずだ。しかし原発の関係者に「どうせ理解されない」という諦めが流れていないか。政府や電力会社は原発を動かす意味を国民にも、司法の場でも粘り強く説くべきだ。それが突発的な停止のリスクを和らげる。