慰安婦問題で日韓合意

 神戸大学教授 木村 幹

韓国、日本より米国を意識

 

 昨年12月28日、日韓両国政府は慰安婦問題に関する合意を発表した。第2次世界大戦終結から70年、本格的な外交問題と化した1991年から数えても24年たった時点での突然の合意は両国内だけでなく、国際社会でも大きな驚きをもって受け止められた。なぜ両国政府はこの時点で合意に到達できたのだろうか。

 大きな示唆を与えてくれるのが、合意そのものの内容だ。
@慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決の確認A慰安婦問題が軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題であることの責任を日本政府が痛感し、安倍晋三首相が心からのおわびの気持ちを表明するB元慰安婦を支援するため韓国政府が設立する財団に、日本政府が10億円程度の資金を一括拠出するC両国政府が今後、国嵐など国際社会で本問題について互いに非難、批判することは控えるDソウルの日本大使館前にある少女像について、韓国政府が関連団体との協議を通じ解決に努力するーーの5つだ。
 日本側の負担が小さいのに比べ韓国側の負担が大きなことは明らかだ。日本政府の理解では、Aに相当する内容は合意当日に岸田文雄外相が安倍首相による謝罪の弁を読み上げた段階で既に達成されており、残る課題は事実上、韓国政府が設立する財団への拠出のみとなっている。国会で拠出が覆される可能性は極めて小さく、日本政府による合意履行の障害はほとんどない。
 一方、韓国政府には2つのことが要求される。一つは少女像を巡る問題だが、韓国政府に求められるのは「努力すること」のみで、その負担はそれほど大きいといえない。実際、韓国政府には、関係団体や少女像が設置されている道路を管理するソウル市を説得する準備はほとんどなく、説得が成功する可能性も極めて小さいことは日本政府も熟知しているはずだからだ。
 韓国政府にとって負担なのはもう一つのこと、すなわち合意そのものに関して元慰安婦や支援団体をいかに説得するかである。とりわけ重要なのは、日本政府からの拠出を受ける財団をどう運営し、どのような支援活動を元慰安婦らに提供できるかである。
 90年代に日本が設置した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の活動は、世論の反発と多くの元慰安婦らによる受け取り拒否で、韓国内での問題解決にほとんど寄与しなかった。韓国政府が新たに設立する財団も、元慰安婦らが支援を拒否すれば、有名無実の存在に転落しかねない。さらに韓国政府は合意までの段階で、元慰安婦や支援団体とほとんど協議していない。頭ごなしになされた合意に対して元慰安婦らは大きく反発し、活発な抗議活動が展開されている。
 今回の合意は、日本側が謝罪および10億円を拠出する見返りに、元慰安婦らの説得や支援など、その後の負過はすべて韓国側が引き受ける形になっている。加えて、日本政府は拠出について法的賠償でないと明言しているから、韓国政府はこれまで主張してきた「慰安婦問題は日韓基本条約の交渉の枠外にあり、ゆえに元慰安婦らには法的賠償を請求する権利がある」という見解を自ら覆す形になった。

 ではなぜ韓国政府は、明らかに不利な条件で合意をのんだのか。まず明らかなことは、韓国側の譲歩が何かしらの日韓関係そのものの重要性を鑑みてのものではないことだ。
 例えば、韓国財界の一部が求める日韓スワップ協定を巡る再交渉は、今回の合意の条件になっていない。日韓自由貿易協定(FTA)などの協議についても同様で、この譲歩が韓国経済の状況に配慮した結果でないことは明月だ。安全保障その他の両国間協力に関わる懸案も同じく、昨年11月の首脳会談以降、新しい重要な協力を始めるための目立った動きはみられない。
 つまり今回の合意は、必ずしも日韓関係そのものを改善するためのものではない。にもかかわらず、なぜ韓国政府は大きな負担を引き受けてまで、慰安婦問題を巡り日韓関係を改善する必要があったのか。日韓関係が悪いことが、日韓両国以外の第三国、とりわけ両国が同盟関係にある米国で、韓国の印象に対して悪影響を与えかねないからだ。
 だがそのことは、慰安婦問題など歴史認識問題で、韓国政府が日本政府を強く批判すること自体が、米国に忌避されたことを意味しない。例えば2013年12月の安倍首相の靖国神社参拝への批判として典型的に現れたように、米国も日本の第2次大戦時の行為について否定的なスタンスを維持している。日本の一部で主張される慰安婦問題を巡り日本政府の責任を全面否定するような意見は、米国内でほとんど支持を得られない。
 しかし慰安婦問題での日本との対立が、韓国政府にとって大きな負担となったのは、それが朴槿恵(バク・クネ)政権下で急速に進んだ中国との接近と関連して理解されたからだ。とりわけそうした批判が急速に強くなったのは昨年9月、北京での「抗日戦勝70周年式典」に朴大統領が参加してからのことだ。
 中国軍の軍事パレードを閲兵するために、中国の習近平国家主席やロシアのプーチン大統領と天安門上に並んだ朴大統領の姿は、韓国の中国接近を象徴するものとして受け止められた。南シナ海などで中国と軍事的に対立する米国の安全保障関係者を大きくいら立たせることとなった。環太平洋経済連携協定(TPP)の妥結も韓国にとって衝撃だった。自らを除外した大規模FTAの締結に、韓国は孤立感を深めることになった。
 とはいえ厄介なことに、自らの国内総生産(GDP)の4分の1近くにも相当する中国との巨大な貿易を抱える韓国にとって、今更中国との距離を置くことも不可能だ。それではどうすれば、中国との関係を悪化させずに、米国の疑念を解けるのか。結局、その答えの一つが慰安婦問題に対する妥協だった、といえる。これにより韓国は、米国の北東アジアでの安全保障政策の中核である日米韓3カ国の協調に最大限配慮していることを、自ら示したことになる。

 ここからわかることが一つある。現在の日韓関係が既に相互の関係の重要性以上に、それを取り巻く国際情勢により動かされていることだ。だからこそこの関係は、今月6日の北朝鮮による核実験からも影響を受けることとなる。
 北朝鮮による核実験は、慰安婦合意で国内からの批判に直面する朴政権にとって、支持率を回復させる「追い風」であるのみならず、南シナ海などで対立する米中両国の協力のきっかけとなる「神風」でもある。当然、政権支持率が回復すれば慰安婦合意の履行は容易になる。他方、北朝鮮問題を巡り米中が接近し、米国が中国に対する警戒を緩めれば、韓国政府が無償をしてまで歴史認識問題で日本に妥協する理由はなくなる。
 大きな目でみれば、米中間で綱渡り外交を続ける韓国政府にとって、日本との慰安婦合意も綱渡りのためのアクロバット(曲芸)の一つにすぎない。そしてそことを理解しなければ、日韓関係の将来も見誤ることになろう。
 結局今回の合意は、日韓間国政府の外交的計算の産物であり、それ以上のものではない。合意や和解への安易な幻想を持たず、今後も粛々と対処することが必要だ。そしてそれこそが唯一「過去」に誠実に向き合うことなのである。

 

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