回顧2015 小説
文芸評論家 清水 良典
@呪文 星野智幸著
(河出書房新社・1500円)
A指の骨 高橋弘希著
(新潮社・1400円)
B鳥の会議 山下澄人著
(河出書房新社・1600円)
戦後70年の節目を迎えた今年は、安保関連法案の強行採決によって、戦後維持されつづけた不戦の誓いが根底から覆された年でもあった。過激派組織「イスラム国」の発信した残虐な映像が世界中を震撼させ、彼らの無差別テロの標的に、アメリカと連携する日本も含まれようとしている。足元の平和が、ただの幻想となる不安に私たちは怯えなければならなくなった。
本紙でも特集されたが、今年になって「ディストピア」と呼ぶべき内容の作品が相次いで発表されたことは、決して偶然ではなかろう。反ユートピアであるディストピアは未来の暗黒面を描くものだが、現在の政治情勢への強い抗議や風刺の意図が露わな傾向が目立った。
たとえば田中慎弥の『宰相A』は、戦争をすることが民主主義的平和であると主張する「もう一つの日本」に迷い込んだ小説家の話である。遠くG・オーウェルの『一九八四年』やカフカを回想させながら、戦争の準備を平和と言いくるめる現在の政治言語の欺瞞性を想起させずにおかない。また島田雅彦の『虚人の星』も、中東紛争に軍事介入してしまう世襲総理の言葉と行動の矛盾、またネット世論の迷妄を暴き出していた。どちらも現実の政治状況に対する、作家の強い危機意識が見て取れた。
一方、重野智幸の『呪文』は、小さな商店街に起きたクレーム事件を発端に、暴力衝動や虚無感が際限なくふくれあがっていく生々しい恐怖を描いていた。村上龍の『オールド・テロリスト』も、社会から疎外された老人たちが戦争体験を生かして無差別テロを装った反乱を起こす物語である。昨年の村田沙耶香の『殺人出産』や吉村萬壱の『ボラード病』と並べて眺めると、一見奇想のような内容がすべて今日の社会現実のいびつさを拡張して超リアルに反映していると感じられる。だとずれば、現在の日本はすでに具現化したディストピア社会なのかもしれない。
戦後70年という点では、辻仁成の『日付変更線』が」ハワイ育ちの日系米兵たちの戦争体験を70年隔てた二層構造で描きながら、平和を求める思想に憑かれた孤独な男の生涯を伝えていた。
また新人高橋弘希が南島の戦場で死んでいく兵士の日常を子細に措いた『指の骨』の出現は衝撃的だった。若い世代が戦争体験に、ヴァーチャルであろうと模倣であろうと、これほど濃密に接近しようと試みたことじたいが、逆に戦争体験との世代的隔たりを思い知らせたからである。
さて、小説界の今年の話題をさらったのは、何といっても又吉直樹の『火花』だった。お笑い芸人が究極の笑いを求道的に模索する孤独を描いた作品だが、たんに人気芸人の達者な小説という以上に、太宰治や織田作之助らの昭和時代を感じさせる文体が、どこか郷愁を伴って読む者を惹きつけるのだ。『指の骨』を含めて、いわば若い世代の先祖返りというべき現象が、現代文学の今後の動向に大きな影響を持つのではないかと思われる。
その一方で、先鋭的な若手の意欲作も見逃せない。小野正嗣の『九年前の祈り』は大分県の海岸沿いの地域を舞台に、複雑な構成を駆使して、他者を思いやる無垢な精神の居場所を探っていた。上田岳弘の『私の恋人』は、10万年前のクロマニヨン人から現代の会社員までをワープ的視野で大肝につなぐ想像力が展開する。自我や文明を超えた人類史、宇宙史的発想の勢いは留まるところを知らない。また山下澄人の『鳥の会議』は少年期の友人の回想を軸としながら、通常の小説的な自我の主張にも合理的説明にも染まることなく、空白や沈黙をも含みながら、友人と築いた共同体を浮かびあがらせる。いずれも小説にまだまだ未来があることを教えてくれた。
最後に、今年は谷崎潤一郎没後50年だった。新全集の刊行とともに多くの企画や出版物があり、11月には上海で国際シンポジウムも行われた。谷崎が今も愛読されつづけるのは、たんに高名な文豪だからだけではなく、その豊穣な物語の力が今日の小説をなお圧倒しているからではないだろうか。若い世代の良い意味での「先祖返り」が今後もっと行われてよいと思う。その中で、山田詠実の『賢者の愛』は『痴人の愛』の、三浦しをんの『あの家に暮らす四人の女』は『細雪』を、それぞれ下敷きにしながら、現代小説として再創造を試みた意欲作だった。
年間ベストセラー
@火花 又吉直樹著(文芸春秋)
Aフランス人は10着しか服を持たない
ジェニファー・L・スコット著(大和書房)
B家族という病 下垂暁子著(幻冬舎)
C聞くだけで自律神経が整うCDブック 小林弘幸著(アスコム)
D103歳になってわからたこと
篠田桃紅著(幻冬舎)
E置かれた場所で咲きなさい 渡辺和子著(幻冬舎)
F新・人間革命第27巻 池田大作著(聖教新聞社)
G智慧の法 大川隆法著(幸福の科学出版)
H人間の分際 曽野綾子著(幻冬舎)
I感情的にならない本 和田秀樹著(新講社)
(14年11月27日から15年11月26日まで、日販調べ)
文芸書に「又吉効果」
流通の仕組みに変化の波
今年の出版界は文芸書でヒット作に恵まれたが、雑誌販売の落ち込みが大きく市場の縮小傾向は変わらない。出版流通の構造変化を反映した動きも目立つ。
又吉直樹の芥川賞受賞作『火花』 (文芸春秋)の単行本発行部数が245万部に上り、年間ベストセラー1位に輝いた。この本だけでなく、著者が薦めた本の売り上げも伸びる、、「又吉効果」が生じ、他の芥川賞直木賞受賞作も好調で、文芸賞は話題に事欠かないl年だった。
ただ、出版科学研究所によると2015年1卜〓月の書籍・雑誌推定販売金額は、1兆3930億円と前年同期に此ベ5%減った。雑誌の減少幅が8%減と大きく、通年でも「雑誌は準去最大の落ち込みとなるのが確実で、雑誌・書籍合計でも減少率は過去最大になりそうだ」 (同研究所)。
出版流通も揺れている。KADOKAWAがネット通販大事アマゾンジャパンと取次を介さない直接取引を4月に開始。取次4位の栗田出版販売が6月、民事再生法の適用を申請した。
9月には村上春樹のエッセー『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)の初版10万部のうち9割を紀伊国屋書店が版元から直接買い取った。自社の店舗や他社の書店に限って供給。ネット書店への対抗策として話題を呼んだ。
本に触れる場として欠かせない公共図書館をめぐっても論議が巻き起こっている。TSUTAYAを展開するカルチュア・コンビニエキンスクラブ(CCC)などが運営する神奈川県海老名市立中央図書館では選書の仕方などに批判が噴出。愛知県小牧市は住民投票の結果を受け、新図書館計画でCCCなどと結んでいた業務契約を解消した。
図書館が売れ筋の本を大量に貸し出すことが新刊本の販売減につながるとの懸念はかねてあった。一部の出版社や作家の間で、新刊、書の貸し出し開始を遅らせることを図書館に求める機運む高まり始めた。
現状のままでは、光明は見いだせない。読者を魅了する本をどう生みだし、どう届けるのか。従来の仕組みにとらわれずに、知恵を絞る必要がある。