戦後70年 追悼をたどる



「靖国」定まらぬ道筋

 せみ時雨と人波であふれた境内に、一瞬の静寂が訪れた。15日正午、東京・九段の靖国神社。目と鼻の先にある日本武道館での全国戦没者追悼式の様子が放送で流れ、参拝客らは合杷(ごうし)された246万6干余の祭神にこうべを垂れた。

昭和天皇、不快感
 同じ頃、広田弘太郎77)は東京都港区の自宅で過ごしていた。
 祖父はA級戦犯の元首相、広田弘毅。靖国神社に合杷されているが、弘太郎には実感がない。「祖父は靖国にはいないと思う」広田弘毅は元外交官で1936年の2・26事件後に約1年間首相を、前後には外相を務めた。大陸や南方へ進出した軍部の暴走を止められなかったとされ、東京裁判で文官で唯一死刑判決を受け、絞首刑となった。
 靖国神社は戦後、旧厚生省が遺族援助の目的で作成した戦没者名簿に基づき、公務死した軍人・軍属らを遺族の意向とは関係なく合祀してきた。同省はA級戦犯14人も名簿に載せ、66年に神社側に通知。当時の宮司、筑波藤麿は合祀を留保したが、78年に後任の松平永芳が「昭和殉難者」として踏み切った。
 「祖父は軍人でも戦死でもない。国に殉じた人  を祭る神社はあっていいが、一方的な合祀は納得しがたい」。弘太郎は表情を曇らせる。
 A級戦犯の合祀をめぐっては、昭和天皇が不快感を示していたことが2006年に元宮内庁長官の富田朝彦のメモから判明。天皇陛下の参拝は75年11月の昭和天皇を最後に行われていない。中国や韓国が首相参拝に反発を強めるのも合祀後だ。
 もっともA級戦犯の遺族の受け止めは一様では無い。広田弘毅と同様に文官で合祀された元外相、東郷茂徳(禁錮20年の刑で服役中病死)の孫で元外交官の京都産業大教授、東郷和彦(70)は年に1度、学生を連れて靖国を参拝する。「靖国には日本が大切にすべき歴史の記憶が残っている」と考えるからだ。
 和彦は、国民全体が受け止めるべきだった戦争の責任をA級戦犯が引き受け、それが敬いの対象になっていることは不自然ではないという。「多くの人が『靖国で会おう』と言って死んでいったことは無視できない。追悼の場は靖国しかない」とも語る。


政治絡み停滞
 A級戦犯の合祀は戦没者の追悼のあり方とも絡み、世論を割ってきた。
 13年には米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、身元不明の遺骨を納めた無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京・千代田)を訪れ献花した。
 「靖国問題の原点」などの著書がある東京理科大嘱託教授の三土修平 (66)は、富田メモの発掘と米閣僚の千鳥ケ淵献花の2つが事態を前進させる好機だったとみる。だが「政治家が逸してしまった」と指摘する。
 「祖父の合杷は遺族としてありがたい」という和彦も、現状のままで良いとは考えていない。「問題の解決は日本に対するアジアや世界からの信頼にもつながる」として、合祀の扱いを含めた改革の必要性を説く。
 A級戦犯の合祀は自民党や日本遺族会で取り沙汰されたこともある。だが靖国神社は「一度合祀された御祭神は取り下げられない」との立場を堅持する。膠着した現状の打開を求める声はあるが、具体的な道筋は今も見えない。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦没者と広がる距離

 大小3万超の提灯(ちょうちん)が照らす境内を、浴衣姿の若者らが談笑しながら歩く。「こんなに人の少ない『みたま』は初めてだよね!」。参道のあちこちで驚きの声が上がった。

露店と酒宴禁止
 今年で69回目を迎えた靖国神社(東京・九段)の「みたままつり」。7月13〜16日の期間中の来場者数は約15万5千人で、昨年の約33万人から半減した。毎年訪れている墨田区の女子高校生(18)らは「だって、今年は屋台が出ないから」と口をそろえる。
 1947年に「国のために尊い命をささげた英霊を慰める行事」として始まった都心の夏の風物詩。靖国神社は今年、例年200店が並ぶ露店の出店を中止し、境内での酒宴も禁じた。
 数年前から交流サイト(SNS)などで誘い合って大勢の若者が集まるようになり、騒音やトラブルといった「様々な問題が発生した」(靖国神社広報課)のが原因だ。
 杉並区の私立大4年の男子学生(22)に聞くと、靖国は夏休み前に大学のクラスや高校時代の友人と同窓会感覚で集まる場所」。戦没者を祭っていることは「よく知らない」という。
 戦後生まれの祖父母や両親と戦争について話した記憶はない。「戦争はダメだと思う。でも『戦没者を悼む』 『悲劇を繰り返さない』と聞いても、どこかリアリティーを感じられない」。学生は真剣な表情で語った後、スマートフォンで提灯と仲間を写真に収めた。
 終戦から70年。戦後生まれの割合は日本の総人口の8割を超え、戦没者の追悼を支えてきた「子世代」は高齢化が進んでいる。靖国神社も例外ではなく、寄付で神社を支える「崇敬奉賛会」の会員数は2002年の約9万3千人をピークに減少。昨年11月現在で約6万3千人にまで落ち込んだ。
「時代は移りゆくとも慰霊の心は永遠に」。靖国神社が70年の節目に掲げたメッセージに応えるように、日本遺族会は、戦没者追悼を次世代に引き継ごうとしている。昨年3月、都道府県の支部組織に戦没者の孫らによる「孫、ひ孫の会」を立ち上げるよう呼びかけた。今春までに9県の遺族会が結成した。

組織化に二の足
 ただ、日本遺族会事務局は「戦没者遺児と、孫やひ孫で戦争に対する考え方にギャップがあるのは否めない」と打ち明ける。若い世代を組織化するのは容易でない。
 新潟県連合遺族会会長の横山益郎(79)も孫、ひ孫の会の結成に踏み出せずにいる。3歳のとき、中国に出征した父は遺骨となって帰国した。20代の頃から遺族会活動に携わり、毎年、靖国神社への参拝も続けているが、「自分の代で遺族会も終わりかも」との不安は拭えない。追悼行事をやめた下部組織もある。
 横山は父の戦死を報じる古い新聞記事を見つめ、「戦争の記憶はずっと語り継いでほしいが・・・」と黙り込む。父が戦死したため幼い頃から田植えを手伝い、働きながら定時制高校に通った。「戦争さえなければ、という切なさを抱えてきたから遺族会の活動を頑張り、靖国にも参拝した。子や孫に、同じ気持ちで手を合わせろと言うのは少し酷じゃないかな」。
 戦争を知らず、戦争で肉親を失った悲しみも知らない世代は、戦没者とどう向き合うていくのか。遺族会の現状は、将来の慰霊のあり方を問いかける。 



鎮魂 どう心合わせる

 1964年の全国戦没者追悼式。終戦の日に天皇、皇后両陛下が臨席し、白木の標柱に鎮魂の祈りをささげる――。厳かな式典の内容は現在と変わらない。だが、この年の会場だけは特別だった。靖国神社(東京・九段)の境内。大鳥居と拝殿の間、大村益次郎像前の「広場」に張った天幕に約2千人の遺族が集まった。
 遺族代表として式辞を述べたのは南方戦線で夫を失った久礼信子(当時45)。久礼は式典後の取材に「靖国神社境内で式が行われることになり、夫に一歩近づいた気がします」と答えている。

靖国で一度だけ
 64年に東京大から通産省(現経済産業省)に入省し、駐英公使などを歴任した久礼の長男、彦治(76)は「あの日のことはよく覚えている。でも母は『靖国で』ということがそれほど特別だとは思っていなかった」と振り返る。
 追悼式が8月15日に初めて行われたのはこの前年の63年。会場は日比谷公会堂だった。
 「宗教的儀式を伴わなくても、その場所を借りるというだけで誤解を受ける。宗教的なにおいのある場所は適当ではない」。当時の厚生相、西村英一は国会で会場選定の理由を説明している。
 池田勇人内閣は翌64年もいったんは日比谷公会堂を会場とすることを閣議決定したが、7月に入って会場を靖国神社境内に変更した。「自民党総裁選を間近に控え、遺族団体の票を背景にした議員たちの圧力に折れた」とする見方が広がった。
 「政教分離の原則に反する」 「特定の宗教の空気がみなぎる場所では国民的な行事にならない」。野党は突然の変更に反発したが、政府は「遺族の要望」を強調、靖国神社の拝殿から約300b離れた「大村像の近所ならば批判は免れる」として開催に踏み切った。
 その後も靖国神社で政府主催の追悼式を行ったことに対しての批判は強く残り、65年からは会場を日本武道館とするのが通例となった。同神社での開催は64年が最初で最後だ。

見えない具体像
 多くの国民が参加し、近隣諸国にも理解される国の追悼行事、施設とはどんなものなのか‥
 小泉純一郎内閣の官房長官だった福田康夫(79)が2001年に設置した「追悼・平和祈念のあり方を考える懇談会」で委員を務めた東大名誉教授、御厨貴(64)は「敗戦から70年の節目にいま一度、考えてみるべきだ」と話す。   
 懇談会は国立の戦没者追悼施設の必要性、性質、名称、場所などを1年にわたって議論したが、「無宗教の恒久的施設が必要」と「指摘」しただけで、具体像を示すには至っていない。
 「詳細な結論を取りまとめようとすれば、懇談会は決裂しただろう」と御厨は振り返る。「靖国神社は国民の大多数の意識の上では追悼の公的施設だ」とする意見、「日本人以外の戦没者も含めた無宗教の国立施設をつくるべきだ」という考え。「靖国の位置づけ」をめぐる委員間の隔たりは大きかった。
 だが「戦争を知らない世代が国民の大半になることが予想される今こそ、『戦争と平和』に思いを巡らし、『平和国家』日本の担い手としての自覚を促す節目のときに違いない」という報告書の問題提起は今に通じる。
 御厨は言う。「すべての国民がわだかまりなく心を合わせ、犠牲者に思いをいたす場所がこれから必要になる。今夏はそれを考える好機ではないだろうか」

 

 

 

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