「バリの父」誠意の日本人


長 洋弘


 昔、インドネシアのバリ島で「パパ・バリ(バリ島の父)」と呼ばれた日本人がいた。1930年から自転車店を営み、温かい笑顔で誰からも慕われた。島の生活と文化に深い愛着を持ち、日本が太平洋戦争で島を占領した時は、軍と住民の間に立って様々な問題の解決に心をくだいた。
日本人の名は三浦嚢(1888~1945年)。日本が戦争に負けた直後の45年9月、バリ島で自ら命を絶つ。インドネシア独立を掲げて同地を占領した日本が敗戦で約束を果たせなかったことをわび、インドネシア人自身の手で宗主国オランダからの独立を勝ち取ってほしいと呼びかけるための死だった。
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孤児を育てたことも
 82~85年、私はジャカルタの日本人学校に美術教師として勤めるかたわら、日本の敗戦後もインドネシアに残って独立戦争に参加した「残留日本兵」の取材、撮影に取り組んでいた。その中で、ときおり三浦の話を耳にすることがあった。彼の人生に引き付けられた私は、遺族やバリ島で彼に直接会った人々を訪ね歩いた。
 三浦の存在を知って間もないころ、バリ島中心地のデンバサールにある彼の墓所を訪れたことがある。墓を管理している男性に日本から来たと話すと、「私はミウラさんにお世話になったんですよ。よく来ましたね」と歓迎してくれた。三浦は島の孤児を育てていたこともある。戦後ずいぶん時間がたったのに、いまたに慕われているとは。どんな人物だったのか。
 三浦は東京・神田生まれ。父はプロテスタント教会の牧師で、母は英語教師だった。三浦自身もキリスト教の洗礼を受け、熱心な信徒となる。バリ島時代の三浦を知る人々に聞くと、三浦は信仰を表には出さなかったそうだ。だが、人を愛し、正義を貫こうとする態度は、心に秘めた信仰に根ざしたものだった。
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中古自転車プレゼント
 20歳のころに知人の商人を頼ってジャワ島スマランに渡り、行商に従事。のちにセレベス島(現スラウェシ島)マカッサルで貿易商として活躍し、コーヒー栽培にも取り組んだ。病気で亡くなった最初の妻と、再婚した妻との間に5人の子どもにも恵まれた。
 昭和の大恐慌の余波を受け」コーヒー園をたたんでバリ島に移住。デンパサールの中心地に「トコ・ミウラ(三浦商店)」を開き、日本から輸入した自転車を扱った。
 当時小学生だったグデ・グリアさんに三浦の思い出を聞いたことがある。そのころ、自転車1台は年1頭と同じ値段だった。グデさんは毎日お店の前でため息をつきながら自転車を眺めていたところ、三浦が中古自転車を指さして、「これを君にあげよう」と言った。にこにこしながら「勉強するんだぞ」と頭をなでてくれた三浦のことを、グデさんは昨日のことのように覚えていた。
 41年末の太平洋戦争開戦とともに、日本軍はバリ島を占領した。三浦は欧米の植民地支配からアジアを開放するという母国のスローガンを信じ、海軍民生部の顧問などとして活動する。
 占領の初期に三浦と親しく付き合った元海軍主計大尉の稗方典彦さんに、大阪の彼の会計事務所で話を聞いた。三浦は「親切だけど、毅然とした態度。一度で胸に焼きつく人だった」。ある日、滞在先のホテルで稗方さんが記念帳にインドネシア独立を願う言葉を書くと、三浦は「いいことをお書きになりましたね」とほほ笑んだという。
 三浦は軍政に対し、バリ人の登用を積極的に助言した。道路税や自転車税の撤廃など、暮らしの安定にも心をくだいた。
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敗戦…約束の日に自決
 インドネシアの指導者に対し、日本は45年9月7日に独立させると約束をしていた。だが、敗戦によりそれは果たされずに終わる。約束の9月7日当日、三浦は拳銃を石のこめかみにあて、引き金を引いた。
 「私の魂はこの国で生き続け、独立を見守ります」。自決の前日、人々を前に三浦はこう語ったという。「アジアの解放」という戦争目的を信じた三浦は、自らの責任として約束を引き受けようとしていたのだろう。
 30年かけた取材の結果は評伝にまとめた。戦後70年を機に、三浦を主人公にした小説「バリに死す」 (燦葉出版社)も書いた。人の価値は地位や名声ではなく、誠意ある行動にあるのだ。三浦の生涯は、そのことを私たちに静かに語りかけていると思う。

 

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