言葉の蛍たち



山崎佳代子


 今年も三月が、花吹雪といっしょに、哀しい思い出を運んでくる。1992年3月24日に北大西洋条約機構(NATO)軍のユーゴスラビア(セルビアとモンテネグロ)空爆が始まると、私は日記が一行も書けなかった。空襲警報下のベオグラードで、少しずつ詩が産まれるたび、書肆山田が刊行していた季刊誌「るしおる」 (仏語で蛍のこと)へFAXで送った。大きすぎる不条理は、人から言葉を奪う。詩の言葉は、沈黙にいちばん近かった・・・


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 気品ある白い表紙。22センチ四方の正方形で、青い版画に飾られていた。言葉が、詩や随筆の形をとって、声を合わせている。空爆から2年後、そこに「ベオグラード日誌」を連載するようにとお誘いをいただいた。戦争を語り出すには、時間が必要だった。2001年から2007年にかけて、四季折々、ベオグラードから小さな出来事を記した文章を、編集者の大泉さんに手紙のように送り続けた。書物としてまとめたのは昨年の春、ユーゴスラビア内戦の記録などに、私自身も東京で遭遇した東日本大震災の記録をあわせ、12年間を若菜のように束ねた。
 『ベオグラ」ド日誌』を読み返すと、綴られた日々が厳しい歴史の裂け目にあったことに気が付く。民族浄化、国連制裁、津波、原発事故。だが同時に、12年間には、ささやかな幸せや明るい驚き、愉快な光景も織り込まれていた。子供の誕生、修道院への旅、葡萄酒や煮込み料理の美味しさ。主な登場人物の何人かは、この世を去った。猫のプルキーも燕も。だが、彼らとの出会いを記したことで、事物を開けば、懐かしい人に会うことができ、はっきりと声が響いてくる。
 あれから日誌をつけていない。だが、日常生活は、いくつもの光景を私の胸に刻んでいく。昨年の12月、日曜日の朝のこと。バスの窓から穏やかな陽光が流れ込んでくる。すると、「カヨ先生、こんにちは」と、隣の座席の青年が声をかけてきた。どこかで見たことのある顔だが、誰なのか思い出せない。「どちらでお会いしましたっけ」と、訊くと、「Bさんの助手です」と言った。「B先生って、何を教えていらっしゃるの?」と尋ねると、「学生のB君ですよ、車椅子のB君の助手です」と言う。小柄なB君の縮れ毛、眼鏡の奥に輝く瞳、華奢な肺から力いっばい発せられる声をすぐに思い出した。
 助手と聞いて大学の教官と誤解したのだが、それは2年生のB君を日本語の教室まで送り迎えしてくれる青年だったのだ。いつも、控えめで丁寧な挨拶をする人……「あなたのことをB君のお兄さんだと思っていたわ」と言うと、「よく間違えられますが、介護の者です」と、微笑む。彼の名はスレチコ、セルビア語で幸せという意味だ。日本語風に言えば幸彦だ。


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 国家解体や内戦で疲弊したセルビアでは、20年以上も厳しい就職難が続く。幸彦君は、工業高校を卒業したが仕事がみつからず、市役所が主催した介護講座を修了して免状を取り、特別な助けが必要な人の介護を仕事としているという。「この仕事には、やりがいを感じています。介護を必要とする人が、ベオグラードには多いし。今朝は、寝たきりの男性の入浴のお手伝いです」、と朗らかな声で言った。
 バスがトンネルをぬけ、青年会館はすぐそこ。私は降りる準備をする。「どうしてB君は車椅子が必要になったのかしら」と訊いた。「ワクチンのせいです。1992年、国連経済制裁が始まった年を、覚えていらっしゃいますね。薬品の輸入さえ、国連の許可が必要でしたか、許可はなかなか下りなかった。そのとき外国から人道援助のワクチンが届けられましたが、使用期限がとっく に切れていたのです。B君は、生まれたときは健康な赤ちゃんで、どこにも異常はなかった。ところがワクチンを打ってから、下半身に麻痺が出て、治すことができずに車椅子の生活になった。でも家族が、それを知ったのは、つい数日前のことなんです。その日、B君のお母さんは僕に電話してきて、息子は期限切れのワクチンのために下半身が麻痺したのですよ、と泣きながら話していました……」
 言葉を失った。それでは、また授業のときにね、と私は言うと、バスから降りる。手を振る。バスは幸彦君を乗せて、ゆっくり坂道を遠ざかる。休日のマケドニア通りは、人通りが少ない。冬の静かな町を歩きながら、B君の家族のことを想った。不正義……。期限切れワクチンの犠牲者は、B君ひとりではないだろう。

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 20年の歳月が流れ、やっと明らかになったB君の麻痺の理由は、戦争という大きな出来事のなかの、小さな出来事に違いない。私の日誌は、こうした「小さな出来事」を記す作業だった。日誌を記すとは、日々の暮らしや夢を綴った言葉に、時を経てますます鮮やかになる戦争の記憶を、丁寧に織り込む手作業だった。
 今、ふと想う。空襲警報の78日は、限りなく沈黙に近い詩の言葉に守られていた、と。その後の12年間は、小さな出来事を語る言葉の光に満たされていた、と。『ベオグラード日誌』に集めた言葉の蛍たちが、南欧の土地から視た世界を透かして、読み手の胸に揺らめいたら嬉しい、と思う。
 ふたたび日誌を事くとしたら、あの日曜日、2014年12月14日から始めるかもしれない。バスの窓から眺めた冬のマケドニア通り、どっしりと建つラジオの円形の建物、青信号を待つ野良犬……。いつかまた、日誌を続けたい。春の夕暮れに、そう思った。

 

 

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