渡辺崋山を想う

   静岡県立美術館超長 芳賀徹


 徳川家康(1543〜1616)が没して再来年は400年。それを記念してさまざまな行事がすでに動き始めている。私たちの美術館でも、2016年秋には「徳川文明展」を催すぺく準備を始めたところだ。家康1人の顕賞ではなく、徳川体制の下に工夫され、築かれ維持されて享受された「徳川の平和(パクス・トグガワ―ナ)」250年(1603〜1853」)の意味を問い直そうという試みである。

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 その文明展に入れられるがどうかはまだ不明だが、いま私が思い浮がべるのは、むしろ「徳川の平和」の終焉を予感して苦悩した1人の武士知識人、渡辺華山(1793〜1841)のなつかしい姿である。
 華山が三宅藩の年寄役に任じられ、海防事務掛をも兼ねることになって、久しぶりに三河の田原に帰った天保4年(1883)のことだった。4月半ば、彼は領内検分の小旅行に出て、渥美半島の突端の伊良湖岬に立った。沖合一里ほどに神島が見える。まるで外洋に向かう巡洋艦のように颯爽たる姿の、いまも美
しい小島である。三島由紀夫が小説『潮騒』の舞台に選んだことでも有名になった。
 領外ではあっても華山は海防掛としてこの島に渡ってみた。強い潮流に難儀しやっとの思いで島に上ると、そこはまるで別天地だった。彼は部下2人とともに網元の家の世話になったが、珍客到来というので村の漁民男女が次々に集まってくるのだ。華山はこのときの旅日記『参海雑志』に
「かの桃源に入りし漁夫もかくやと思ひ出しなり」と書いた。そして翌日早朝、海岸散策に出たときの記録―

「およそ此の島の人、男は素朴にて偽なく、女はいとこころやさしくて……なかなか目出度くぞ見えし。やがてたばこくゆらしつつ海の朝日の出るを見んと、東の磯に立ち出づ。とく起きて磯草乾せる女に案内させて、しろき巌の家よりも大きやかなるが波打際に聳へ出でたるによぢのぼりてながむる。はてしなき海原の大空につらなりて、横雲の赤く紫にたなびきたるさま、波のみどり深く黒みたる、西人の称る大東洋にして、かの亜墨利加とかいへるわたりもこの海原よりつうなれりと思ふに、まことに世の外の思ひを生し・・・」

 19世紀日本のもっともすぐれた武士知識人にして武人画家であった人、渡辺華山の面目躍如たる一節ではないか。この人のなかに宿されていIた感受性のゆたかき、心の優しさ、そして思想のひろがりが、おのずからここにあらわれている。華山ほど、名もなき民衆の健気な日々の営みとその表情にこまやかな親愛の情をよせていた武入は、他にのったにいなかつた(彼の若き日の素描集『一掃百態』は『北斎漫画』にも立ちまさる)。その一方で華山はまた、たばこをくゆらしながらでも、太平洋を眺めればその遠いかなたのアメリカに思いを馳せずにはいられない人だったのである。


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 彼はこの藩領巡察の前の年から、小関三英、高野長英の二人を相手にして本格的に西洋研究を始めていた。ニ人とも長崎でシーボルトに学んだ当特最優秀の洋学者であった。江戸の三宅藩邸内でつづけたこの研究会は、尚歯会と呼ばれ、やがて幕臣の川路聖(あきら)や江川英龍(太郎左衛門)ら開明派の俊秀たちもこれに加かってくる。尚歯会で蘭書を読み内外の情報を集めて研究すればするほど、西洋列強の露骨なアジア進出の形跡は明らかになり、日本国の内憂外患の現状への彼らの焦慮はつのっていった。華山はその点でことのほか鋭敏だった。
 彼が神島のみならず江戸で日々に接する民衆は、みな今なお「徳川の平和」の永続を信じて、つつましくも懸命に立ち働いている。「四海波静か」の世界が「波高し」に急変しつつあることを彼らはまだよく知らずにいる。それならば彼ら名もなき民の平穏と小さな幸福を守りつづけてやることこそ、エリートとしての武士知識人の現今最大の責務ではないか。「徳川の平和」はついに終章に入りつつあることを華山はすでに明らかに自覚していた。

 
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 彼が「慎機論」を書き「西洋事情御答書」を書いて、激越な言葉で徳川幕政下の為政者たちの平和ボケ批判を敢行するのは、あの神島渡海からわずか5,6年後のことだった。その言動が蛮社の獄に直結してこ死刑は免れたが田原蟄居に処せられるのが天保11年(1840)の正月。その翌年10月11日の夜、華山は満48歳で自刃する。
 太平洋の波音の遠く聞こえるなかで、愛弟子の画人権椿山にあてて書かれた遺書は、あまりにも悲痛である。『数年の後一変も仕り候はば、悲しむ人もこれあるべきや。極秘永訣此れの如くに候。」中国大陸にアヘン戦争はすでに始まつていた。ペリーの黒船来航の12年前のことだつた。
 しかし考えてみれば、この華山らのような卓越した武士知識人、藩をこえて新しい公への責務を強く自覚する武士エリートたちを生み、教育し、活躍させたのも、徳川の日本にほかならなかっ。た。そのことを私たちは忘れるわけにいかない。徳川日本の文明は、みずから蓄えた智恵と勇気をもって、新しい国際関係の圧力に対抗し、開国し、自己変革のための近代化策を次々に講じて、明治維新のなかに摂取されていった。その御一新の当の実行者たちも、実はみな「徳川の平和」の充溢のなかで学び、鍛えられて、峯山の遺託した「数年の後(の)一変」に身を挺しようとしたエリートたちだったのである。

 

 

 

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