学校で写真の授業を
ものをとらえ、発信する力を養う
写真家 細江英公
「写真を学校教育に採り入れるべきだ」。写真家の細江英公さんはそんな持論を持っている。多メディア時代にどう美的感覚を養い、新しい表現者を育てていくのか。
米国の小学校では、教育に写真か導人されている。子供たちにカメラを持たせ、好きなものを撮らせるのだ。絵を描くのと同様、写真を撮ることで、対象を正確に認識できるようになり、ものの見方を学べる。発見し、記録するという体験は、子供たちにとって得るものか大きいはずだ。
テレビやインターネットなど様々なメディアから視覚情報を受け取っている現代人は、それを正しく読み解く力を持っている。だかその能力は受け身的なものに留まっているのではないだろうか。受け取った視覚情報を理解することと、自らか視覚メディアを使って表現・発信することの両方が必要だ。そういう「視覚言語教育」の一環として、写真をぜひ活用してほしい。そこから新しい才能も登場するだろう。
■細江さんか館長を務める清里フォトアートミュージアム(山梨県北杜市)は20年にわたって、世界中の若い写真家の作品を収蔵する事業に取り組んできた。評価の定まらない作品を美術館が購人するのは異例だ。
どんな人家にも、若かった時代はある。そのころ生みだした作品がちゃんと残っているというのは重要なことだ。上手下手か問題なのではない。若い作家の場合、ある種の幼さ、未完成さが魅力であり、その時しか表現できないものが込められている。応募作品を長年見ていると、「よくこんなものを撮ったな」という写真に出合うことがある。若い人のとてつもなさを認めるのは年長者の役割だ。
若い写真家の作品を評価するときに重視してきたのは、表現に向かう強い意志と、それを支える思想があるかという点。山や川などの美しい風景を撮るよりも、社会的な被写体に向き合ってほしい。報道写真のように事件・事故を撮るということではない。自分の平凡な生活の周辺にあるものでいい。大切なのは、日常に潜んでいる「残すべき価値」を見いだす目を持てるかどうか。「これは一体何だ」とこちらが困惑するくらい新しい表現か出てきてほしい。
■写真が瞬間の表現であり、偶然の芸術であることに細江さんは大きな可能性を見ている。
写真はシャッターを押せば誰でも撮れるから、生やさしいものと軽視する人がいる。そういう人は、自分で写真を撮ってみるといい。表現と呼べるほどの写真を撮ることは決して簡単なことではないことがわかるだろう。目の前の現実にはっとできる感覚を持った人が優れた写真を撮る。写真は「偶然のような必然」なのだ。
かって「写真道楽」という言葉があった。金持ちが高額な機材を使って気楽に写真を撮るというニュアンスで、このごろ、この言葉を聞かなくなったのはいいことだと思っている。反対に、「写真芸術」という言葉は広がっている。写真は時代を写しとり、記録として未来に残す営みであり、そこに撮影者の思想も投影されるから価値がある。写真は好事家の趣味ではなく、現代社会にとって重要な芸術であるという認識が社会に広がってほしい。