歴史の曖昧さ大事に
日本史研究者 與那覇潤
「正しい」歴史への過剰な期待はかえって対立を招く――。日本史研究者の輿那覇潤さんは、歴史に曖昧さと多様性を認めることの大切さを説く。
日本と中国、韓国のあいだで、近現代の歴史認識が大きな政治問題になっていますが、本来、歴史学と政治には相いれない部分がある。実証的な歴史研究は様々な史料を使って史実を確定し、厳密な形で歴史の空白を埋めていく。一方、政治とはおのおのの事情に即して解釈できる部分、例えば談話上の曖昧な文言をあえて残すことによって、妥協を可能にする道を探る営みです。歴史研究者も政治家も、お互いに違いを自覚して適切な距離を使つことが今、必要だと思います。
政治における曖昧さや妥協を「不純だ!」と批判するのは容易ですが、例えば国情を越えて徹頭徹尾、歴史認識を統一しようとすれば、かえって国際関係はボロボロになってしまいます。
■ 著書「中国化する日本」は日本史を中国化への志向と反発のせめぎ合いと捉える見方を提示した。歴史には多様な視点があってよく、それが社会の豊かさを支えるという。
私自身はあまり「歴史認識」という用語を使いません。いわゆる歴史認識論争には、断片化した事象を取り出して「正しいか、間違いか」 「味方か、敵か」という二者択一を迫るニュアンスがついて回る。間違った史実を批判するのは当然ですが、それだけが歴史研究の意義だという考え方は、むしろ歴史の可能性を貧しくすると思います。
代わりに私が使う言葉は「歴史観」。単体のエピソードではなく、百年、千年の幅で筋の通った物語を考える。「史論」と言ってもいい。
先日、同世代の中国文学者である福嶋亮大さんとの対談で、「正史」と「稗史」の違いが話題になりました。正史は王朝や国家が定める正統な歴史、稗史は民間で自由に書かれる多様な歴史ですね。福嶋さんは中国と比べて、日本は正史より稗史が影響力を持った点が特徴だという。例えば水戸藩が編さんした「大日本史」よりも頼山陽の筆になる「日本外史」の方が、幕末以降広く読まれた。戦後日本人の歴史観への影響が大きいのも、教科書より司馬遼太郎の小説やエッセーでしょう。
国か定める「正しい歴史」一色に染まってしまう社会は余裕や厚みのない社会です。公定の歴史観で説明できない事態か起きると、たちまち対応できなくなる。民間に様タな歴史観のストックがあると、行き詰まっても他の歴史観を持ってきて考え直すことができる。戦後に日本人は「皇国史観」を捨ててもやり直せた。それを可能にしたような歴史観の「幅」を作るのも、研究者が社会に貢献するあり方ではないでしょうか。
■「正しい」だけでなく「面白い」歴史叙述を目指したいと話す。
例えば、国情を越えて人々か感情移入でき、東アジアでベストセラーになる歴史小説を歴史学者がプロデュースするようなことが起きたら楽しいですよね。歴史学的にもしっかりした内容で、見どころのある小説や映画の制作に歴史家が関わるとか。歴史認識を共有する道を探るなら、「正しさ」ばかりを突き詰めるのではなく、「面白さ」を経由するルートをもっと考えていいと思います。