さくら考

葉室麟


 桜の季節だ。日本人は桜か好きだと言われる。だか、どんな桜か好きなのかは、実はひとによって違うのではないか?
 現在のソメイヨシノが幕末に江戸、染井の植木屋によって育成され、明治になって全国に広まった桜だということはよく知られている。
 生長が早く育てやすい、葉よも先に花をつけ、華麗であることから人気かあり、テレビなどで桜の開花として映し出されるのはソメイヨシノか多い。
 しかし、一方でソメイヨシノは種子で繁殖することかなく、接ぎ木などで人の手かかかって初めて増えていく。しかも、寿命か短く、六十年寿命説もあり、老木か少ないという。
 言うならば、ぱっといっせいに咲いてはなやかだか、人工的であり、はかないとも言える。このため、ソメイヨシノより山桜を好むひとも多い。
 文芸評論家の小林秀雄も講演でソメイヨシノは俗っぽいとして山桜を讃えていた。もっとも、小林が桜の話をしたのは、

 しき嶋のやまとごころ
 を人とはば朝日ににほ
 ふ山さくら花

 という本居宣長の有名な和歌を紹介するためだった。小林は代表作である『本居宣長』の書き出しで宣長の墓について記している。

 宣長は入念なひとで、自ら筆をとって墓の設計図を書いていた。この設計図には墓地に植えた桜の木も描かれている。宣長が自らの最期に欠かせないと思ったのか桜だったのだ。さらに宣長は桜を讃える文章も残している。

 「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきか、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐうべき物もなく、うき世のものとも思はれず」 (『玉かつま』)


 宣長は、山桜の葉が花の間にまばらにある美しさを好んだ。「浮き世のものとも思われない美しさ」に山桜の葉は欠かせなかっようだ。
 宣長だけでなく、昔から日本人にとって生死と桜は切り離せない何かがある。しかし、その死生観は、花を先につけ、しかもいっせいに散るソメイヨシノのイメージとは少し違うのではないだろうか。小林は「(小学校の校庭に桜か植えられているのは)文部省と植木屋か結託して植えたようなもの」と冗談まじりに話す。
 明治以降、わか国は大きな戦争を何度も経験し、その都度、国民は兵士となって文字通り散華した。その様はソメイヨシノに似ていると思わぬでもない。
 小林は講演の中で宣長の「朝日に匂ふ山桜花」という和歌について「山桜花っていっても、見たことがなければ、この和歌を味わうことはできない」という。さらに「大和心」についてもふれていた。

 大和心という言葉か初めて文献に見えるのは、『後拾遺和歌集』の歌で作者は女流歌人の赤染衛門だという。
 赤染衛門の夫は平安時代の代表的な学者であり文章博士の大江匡衡だった。
 あるとき赤染衛門のところに乳母としてやってきた女かあまり乳か出なかった。これを知った大江匡衡が

 果なくも思ひけるかな
 乳もなくて博士の家の
 乳母せむとは

 と詠った。「乳」と「知」をかけ、乳か出ない(知識もないのに)学者の家に奉公したのは愚かなことだ、どうしてそんな乳母を雇ったのだ、と赤染衛門をからかった。
 知識人の男の高慢さがどことなく臭っている。
赤染衛門は少し腹を立た様子で、きつい調子の歌を返した。

 さもあらばあれ大和心
 し賢くば細乳に附けて
 あらすばかりぞ

 それがどうしたというの、大和心さえ賢ければ、乳が出ようが出まいが、なにも困らないじゃありませんか、という意味だろう。

 学問をひけらかす夫に、赤染衛門か「大和心」を持ち出して反論したのは、当時の学問か漢籍だからだ。言うまでもなく漢籍は中国から渡来した学問だ。
 漢籍の知識かあることを誇りにして、乳母を貶める夫が赤染衛門は、しやくにさわったのではないか。
 外国の学問や知識をひけらかすよりも人としての心を大切にしたほうかいいのではありませんか、と赤染衛門は夫に言いたかったに違いない。
 現代ならば、職場や家庭でグローバルな外国の知識を披露して居丈高に説教するひとか、まわりから「そんなことを言う前に、この国で育ち、生きている自分自身の心を少し振り返ってみたらどうですか。知識より大切なものかあるのではないですか」とチクリと言われる光景に似ているかもしれない。

   
 宣長か「大和心」にたとえた桜は、葉よりも先にはなやかな花をつけるソメイヨシノのような桜ではない。
 春の到来に浮かれず、質朴で控え目な葉を花とともにつけて、自らを見失わない山桜のような精々しい心こそ「大和心」だと思ったのだろう。
 桜の季節には学生や社会人か新たなスタートを迎える。人生の出発にあたって花を咲かせることだけを考えがちだ。しかし、この国の先人たちか愛したのは、あでやかでひと目を引いて楽しませる花だけの桜よりもヽ慎ましく葉をつけた山桜であったことに思いをめぐらしてみるのも無駄ではないと思う。
 桜を見る気持かちょっとだけ引き締まるのではないか。

 

 

 

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