ピアニスト


杉本 秀太郎


 繁華街の古なじみのレコード店に入る。気の向くまま、あるいは名の記憶を頼りに、新人のCDを求める。FM放送の「ベスト・オブ・クラシック」「クラシック・カフェ」などで、いわば聞き咎めたピアニストのCDを手にすることが多い。「咎めた」はおだやかでない言い方かもしれないが、「咎める」とは取り立てて気にすること。おやと思い、アッと驚き、もう一度しっかり確かめたくなればCDに頼ることになる。


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 この2年ほどのあいだにあらわれた、めざましい新人ピアニストとして、カティア・ブニアティシブィリ、ダニール・トリフォノフのふたりをまず挙げても、おそらくだれにも異存はないだろう。グルジアの若い婦人、おぼえにくい名のひとも、ロシアの白皙の若者も、これまでの大家たちとは別趣の音楽を私たちに差し出す。ショパン「ピアノソナタ」第二番が、これほど強靭な構造のみならず、目のくらむ断絶と、それに応ずる飛躍をそなえているのを、ブニアティシブィリが示した一方では、トリフォノフはショパン「24の前奏曲」の24曲すべてに(第5、16、19の3曲を含め)残りなく同型の付点リズムを回復させることで、24曲が全体として、同型リズムの変奏曲という他に類のない性格をもつことを示した。
 ふたりに共通しているのは、楽譜を読み解く力である。楽譜は一つだが、これを読解する分析と統合の知力を駆使して、これまでに、だれも見届けなかったショパンの深層を楽曲のかなたに見透かしている。

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 いま、クラシックのピアノ分野では、いま言った読解力が、若い新人たちによって次つぎにこころみられているので、その成果を聞くことがそのままピアノ音楽を聞くということにひとしくなってきた。ショパンに限った話ではない。バッハ以下、周知の大作曲家たちそれぞれについて、事情はひとしい。その意味で、いまはピアノに胸のときめく時代である。外界には、いたるところに行きづまりの見える時代だが、技芸というものには限界がない。天空にむかても、地の奥深くにむかっても、ためらうてとなく迫るものが技芸というものなのだから。
 言うまでもなく、楽譜を読み解く力は指の働きとつながっている。弾けなければ何もはじまらないというだけではなく、指そのものに考える働きが活きていなければ、事ははじまらない。考える指。それはピアノのキーのうえにそっと置かれている。キーを叩くのではなく、キーを押す指にだけ与えられる一瞬の休息状態で指は考える。言い換えれば、「音を出す装置」ではなく、「舌に触わる装置」としてピアノを扱うことが、考える指の大切な条件である。かような事柄は、いわゆる「タッチ」の問題の一環をなすのでわかりにくい話になってしまうのだが、ピアノを「音に触わる装置」と考えるだけで「タッチ」は変ってくる。
このことは80年も前にヴァルター・ギーゼキンが指摘している。

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 だが、80年は夢のうちにすぎたようである。先に挙げた漸人ピアニストたちを聞いていると、かれらの音は、ピアノのなかにもともとこもっていた音にかれらが触わったがために、音が起き出して鳴響となったように聞こえる。「私」が主張されていない。「私」は消され、代りに音が立っている。この無私、それがすばらしい。1時代、2時代前の大家たちには、これは手の届かないところであった。グレン・グールドにいたっては、「音を出す装置」としてのピアノから「私」を押し出すことに終始していた。
 シューマンの若いときの批評活動のように、音楽批評が音楽を変えた時代は異例に属する。音楽は音楽によって批評され、それによって変容をかさねてきた。「私」を押し出すピアニストの奏法とその帰結は、「私」を消す奏法とその帰結によって批評され、ピアノ音楽を変容させつつある。この傾向の口火を切ったのは、グールドとおなじくカナダ生まれのピアニスト、アンジェラ・ヒユーイットであった。バッハの奏者としてあらわれたこのひとは、やがてオリグィエ・メシアンをあざやかに奏するひとになり、クープラン、ラヴェル、シューマン、ドビュッシー、ベートーヴェン、モーツァルトそれぞれに演奏を集中して、いまにいたっている。
 「音に触わる装置」としてのピアノという考えを私に与えたのは、このピアニストのバッハ「平均律」二巻の二度目の録音を繰り返し聞いた経験だったのだが、私をアッと驚かせたものにドビュッシー「悦楽の島」がある。この曲が男の欲望の追求と充足の経過を音楽化していることをヒユーイットほど克明に示したひとはいない(ギーゼキングはまだ手ぬるい)。そしてワルツ曲「レントよりもおそく」の濃密な官能性。ピアノを「昔に触わる装置」として扱わなくては実現しなかった音楽の一端に「平均律」があり、もう一端にこれがあるのは、ピアノの奥深さであり、かつアンジエラ・ヒユーイットの技芸の奥深さである。
 外国のピアニストに話題が片寄ってしまった。
 このあいだ、加藤幸子の奏するバッハ「ゴールドベルク変奏曲」をCDで聞く機会があった。カーネギーホールですでにリサイタルを開いているひとだが、我国では無名に近い。音の遠近法の向うに、悠揚として迫らぬバッハの悌が浮き沈みしている。

 

 

 

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