価値観を育てる
礒山 雅
日頃クラシック音楽の研究や評論、その啓蒙にかかわっているが、どのような仕事にも欠かすことのできないのが価値判断である。この作品はどこまで重要か、この演奏は賛辞に値するか、どのCDを推薦するか
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果てはコンクールの順位付けに至るまで、仕事のさまざまの局面で、自分なりの価値判断が必要になる。また、それを求められるのである。
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もとより、音楽における価値判断は多種多様であり、趣味に左右されるところも大きい。だが専門にしている以上、私の趣味なので、と言ったのでは、逃げ口上になる。何らかの根拠が示せるような価値判断を、できるかぎり身につけなくてはならない。そのためには、自己を超える視点を、自分の中に養う必要がある。
出発点においては、対象への愛が、自己愛と重なり合っていた。中学、高校時代における音楽への法外な熱中を振り返ると、そう思わざるを得ない。私は部活に全力投球し、楽器や理論を学び、高価なレコードをなんとか購入しては、むさぼるように聴いた。音楽への感動に染め上げられ、それを自分で肯定している少年時代だった。
三島由紀夫の文学と出会ったのは、それではダメだという予感が、体内に育っていたためだろうか。大学に入る前か後か覚えていないのだが、私は『仮面の告白』を読んで、絶大な衝撃を受けた。ああ、こういう人がいるんだなあ、と思い、そこに登場する「園子」という女性名を、将来の子供に付ける気になった(結局実行はしなかった)。
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のめり込む思いで私は小説に次々と手を伸ばし、とりわけ『豊饒の海』を繰り返し読んだ。これはワーグナーの舞台祝祭劇《ニーベルングの指環》に対応した構成をもつ四部作で、後半の「暁の寺」 「天人五衰」へと進むにつれ、小説としては停滞感を否定できなくなる。だが私は、その後半でこそ展開される苦い世界観に魅了されていた。同時に、偽善の払拭を鋭く『不道徳教育講座』が、人間論のバイブルとなった。
ニヒリズムの霊に取り憑かれると、すべての価値がゆらぐ。私は、ベートーヴェンの価値を語ることにさえ確信がもてなくなり、物事をことごとく、裏から見るようになった。そうしてみると、芸術や学問の世界における理想や真理の探究は、逆に偽善や建前の温床となりやすいことに気づいた。
要するに、自己本位の思い入れに立脚した、少年時代の甘えた価値観が、三島体験によって突き崩されたわけである。私はあらゆる方向に懐疑を向けたが、最大の懐疑の対象は、自分白身だった。やっと自分が見えるようになった私は、自分自身に距離を置き、自分の抱く考えを突き放して、極力異なった角度から見直すすべを学んだのである。また事があれば、自分の責任をまず振り返ってみるように努力した。そのことの大切さがバッハの教会音楽のテキストで強調されていることに気づいたのは、後のことである。
三島熱は結局数年で過ぎ去り、文学上の関心は、谷崎潤一郎に移った。懐疑はいぜん住みついたままだったが、被壊された回路は、自然に再構築されていった。それに伴って価値観の一定の洗練があったと、私は感じている。整理すると、価値判断が主観性を免れないことは確かだが、判断者が自分の価値観に安住せずそれを絶えず問い直すことで、少なくともある程度は限界を克服できるのではないか、ということである。自分の価値観にこだわるのは、自己愛のなせるわざである。だがそれを問い直して新しい見方が開けるとすれば、自己愛は対象に向かう愛へと発展したことになる。こうした発展の中に一定の普遍性が宿っているのではないかと、私は思うのである。
音楽の作業に、終わりはない。作曲家はたえず新しい曲を書こうとするし、演奏家は、既知の曲を、たえず新しい視点で見直そうとする。自己批判を含む、価値観の終わりなき更新である。その新しい部分、クリエイティブな部分を、しっかりき聴き取りたいと思う。
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レコードが高価で尊重されていた時代には、不滅の名盤を購入して一生かけて聴く、という価値観があった。だが、音楽が時間の流れを取り込んで成立しているように、音楽の世界も、生き物のように流れている。生演奏の良さが今なお主張されるのは、それが価値を更新する、クリエイティブな作業への立ち会いだからである。その後バッハを専門とし、古楽にかかわるようになってから、つくづくそう思うようになった。
だが、作曲家や演奏家がいかに精魂を傾けても、その意識的な努力では、音楽の創造は完遂されない。「人事を尽くして天命を待つ」という諺があるが、作業の最良の部分は、当の作曲家や演奏家も説明のできないような、不可思議な力の後押しで達成されるのである。その幸運を得たとき、多くの人に心の糧を与える名曲、名演奏は誕生する。こうした体験の神秘を、ピアニストのエトヴイン・フィッシャーは、「楽曲の解釈について」というすばらしい講演録の中で語っている。
音楽の道はこのようにして、人間を超える世界へと通じてゆく。スターの名声も、自己顕示も空しくなる世界が、奥の方に広がっている。音楽を人間の所産、社会の所有物とする見方を超えて、音楽を聴き、音楽に学びたいと思う。