節談説教で聴衆沸かす
◇落語・講談・浪曲のルーツ?浄土真宗の技受け継ぐ◇
藤 野 宗 城
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一で嫌がる寺参り、二で二の足踏みたがる、三で誘われ義理参り、四つ喜ぶ心なく、五ついつもの癖が出て、六つ無性に眠たがる、七つ何にもよう聞かず、八つやかまし起こされて、九つこれはと驚いて、十でとぼけた顔をする……。
僧侶の説法を聴いていて眠たくなるのは仕方がない。だが、聴衆の中でこっくりこっくり舟をこいでいる人を見つけると、節をつけたこんな数え歌をやってみる。するとどっと会場が沸いて、居眠りしていた人もはっと目を覚ますという次第だ。
歴史は平安時代に
浄土真宗には「節談説教」というものがある。法話の中にリズミカルな節回しを織り込んだもので、僧侶は中啓という扇と数珠を手に持って高座に上がる。落語のルーツともいわれ、語りの部分は講談に、節の部分は浪曲に発展したとも。今ではほとんど受け継がれていないこの説教を、私は50年以上にわたって続けている。
節談説教の歴史は平安時代にさかのぼる。天台宗の澄憲と、その息子でに法然上人の弟子となった聖覚は、当時、天下一の説教と賞された。
大衆にわかるように易しく、面白く仏の教えを説いたのである。やがて浄土真宗にこの説教様式が伝わったようである。
節談の伝統は昭和初期まで続くが、布教のやり方も近代化すべしとの本山の方針があり、廃れてしまった。寺は高座を撤去し、僧侶は黒板の前で法話をするようになった。
私は寺の子だったから、各地の寺を回って説教をする布教使が見事な節談を聴かせ、人々が熱心に聴いていたのを子供のころ間近で見ている。だから得度した後、自分もやりたいと考えた。当時はまだ節談をやる僧侶も残っていた。私は抜群に節談がうまかった山崎顕誠さんという大阪のご住職の元に通い、技術と
布教使としての心得を学んだ。
幸いにして私は親戚もみな寺だったから、「節談とは懐かしい。ひとつうちでもやってくれ」と声をかけてもらった。しかし最初は苦労したものである。高座にあがり、よどみなく説教をしなければならない。自分の記憶力と機転だけが頼りである。冷や汗をかくこともあったが、少しずつ場数を踏んでいった。
一回一回が勝負と…
説教の目的は布教だから、たくさんの人を呼べる布教使の元には次々に依頼が来る。逆に下手と思われたら、もう次はない。だから一回一回が勝負と決めて必死に話をした。やがてあちこちから声をかけていただけるようになった。
昔は節談説教というと「『親の因果が子に報い』みたいな古くさい話だろう」と嫌がる人もいた。だが説教には様々な物語がある。親鸞上人の生涯を語るものや、親子の情愛や命の尊さを説くものなど。だが昔から伝わっているものをそのまま再現しても、今の人は退屈してしまうだろう。だから現代の世相なども盛り込み、布教使が作っていくものなのである。
私も時間があればパソコンに向かって「原稿」を書いている。高座に上がれば何も見ないが、それでも一字一句文章に書き起こし、節の部分にはどんな調子でやるか、記号をつけてわかるようにしておく。そんなふうにして書きためたものが、数えたこともないが、相当な数たまっている。それをみなさんの前でご披露しているのだ。
終わり尊くが要諦
笑い話や涙を誘う物語などを取り合わせ、起伏に富んだ語りをするのが節談だが、これは演芸ではない。仏様の教えをわかりやすく理解してもらうことが目的である。だから説教の最後が笑いで終わ’‥つてはいけないと、先輩に厳しく言われたものだ。「初めしんみり、中おかしく、終わり尊く」が節談の要諦である。こ
のごろは節談を学びたいという若い僧侶がやってくることが増えたが、このことを私は念を押して伝えている。
私は滋賀県の寺で住職をしているが、説教を請われることが多く、北は東北から南は九州まで、様々なところでお話してきた。地方のお年寄りから「いいお話を聞かせてもらいました」とたどたどしい筆跡のはがきをもらったりする。冥利に尽きることである。
仏教の御利益とは思いがけない幸運のことではなく、逆境に向き合ったときにその苦難を受け止める力を持てることである。そのためには平素から仏の教えに触れておく必要がある。求めがあれば、続けられる限り、高座に上がっていきたいと恵っている。