歴史の変り目を感じる
内山 節
私が群馬県の山村、上野村にはじめて釣りに行ったのは、いまから40年ほど前の夏の終わりだった。そのときの私は、自然と村人の暮らしが調和する景色の美しさに驚いていた。上野村は後に日航機の墜落という悲しい出来事で知られることになるけれど、ここは西上州の山並みを通う風と、谷を流れる神流川の水音が織りなす大地とともに、山村の生業に誇りをもつ村人が暮らす里である。私はこの村の古い民家を譲ってもらい、東京と村とを往復する暮らしをするようになる。
この村から日本の社会をみていると、社会はずいぶん変化してきているようである。上野村でわずかな畑を耕すようになったのは、1975年頃だった。その頃は多くの人々は都市の暮らしや戦後的生き方に自信をもっていて、村の暮らしのすばらしさを話しても怪訝な顔をされることの方が多かった。それがいまではまるで逆になっている。現在、上野村の1400人弱の村人のうち200人あまりが都市出身者になっているように、自然とともに、さまざまな技をもった人々が結びあって暮らす村=コミュニテイは、山里という魅力ある場所として、いまでは多くの人々の心のなかに映し出されるようになった。
それは明治以降の日本が追求してきた合理的な生き方や、合理的な社会のなかに飲み込まれるばかりの人生に、人々が飽きてきたからなのかもしれない。
5月3日には、村では毎年火渡りがおこなわれている。遠方からも山伏たちが集まってきて大きな護摩を焚き、残り火がみえる灰の上を集まった人々が走る。特に広報活動をしているわけでもないのに、伝え聞いて集まる人々も年々ふえてきた。参加したからといって特別なご利益があるわけでもない。護摩の炎に神仏の力を感じ、自然の力を受けていることに喜びを感じる。とともに、そういうものを大事にしながら暮らすことに楽しさを覚える。あえて説明すれば、火渡りとはこんな感じである。
8月には村で私のゼミの合宿がもたれる。大学院生のゼミなのだけれど、私のゼミ合宿は人気がある。その理由は合宿の中心に滝に打たれる滝行があるからで、数年前にみんながやりたいというので恒例になってしまった。今年も滝行目当ての学生がいっぱい来る。おそらく、神流川支流の竜神の滝音に包まれ、村の山岳信仰=修験道の霊山にのぼって合宿は終わるだろう。
滝行をしたからといって、これもまた特別なご利益があるわけでもない。打たれているときの自然と一体になっていく感党が素敵なだけである。
現代史とは人々が合理的な生き方を身につけていく歴史だった。真理を解き明かすものとして人々は科学を信じ、経済の合理的な発展が豊かさをが重要視された時代でもあった。
そういう生き方に人々は飽き、との時代から逃れようとしはじめている。そんな空気がいまでも広がってきたようだ。もちろん合理的な考え方すべて捨てたわけではない。だがそこに根源的のを感じなくなっているとでもいえばよいのだろうか。魅了するものはその奥にある。
すべてを説明しつくし、合理的に解釈しようしたのが近代以降の歴史だとするなら、今日広がりつつあるのは、説明できない大事なものを大切にしていこうという発想である。自然の力を感じながら生きるというのもそのひとつだろうし、いま人々が求めているさまざまな他者と結び合いながら生きる充実感というのも、合理的に説明できるものではない。それらは、そうありたいという祈りにも似た願いとともに存在する。
祈りのもつ意味、それは東日本大震災以降私たちが思い出したもののひとつでもあった。被災した人々が無事な暮らしを取り戻してほしいという祈りかあるからこそ、私たちは復興のために何かをしたいと思った。三陸の漁師たちは、海とともに生きたいという祈りを出発点にして、漁師としての暮らしを取り戻そうとしはじめた。
考えてみれば家族を結んでいる根底には、みなが無事でいてほしいとい祈りがあるように、この社会の奥には、かってはさまざまな折りが形成されていた。それを忘れて合理的なものだけを信じるようになった時代が、いまでは浅はかな時代だったように思えはじめた。
上野村の山の頂では、旧盆を過ぎると初秋の気配がただよいはじめる。萩の花が咲きだし、足下ではリンドウが蓄をふくらましている。村人は秋野菜の種を畑に蒔き、冬の準備を始める。いつの間にか蝉の声がやみ、秋の虫たちの声が村を占領している。私たちは、そんな何事もない営みのなかに、無事な世界があることを知る。けっして手放してはいけない、生命の営みの原点があることを。
私は、この世界に寄り添われながら仕事をする。無事な世界を守ってきた、合理的には説明できない結びつきに支えられながら。そして問いかける。私は無事な仕事をしているのだろうか。無事な世界を壊してはいないだろうか。哲学という仕事をとおして、無事な世界を取り戻そうとしているだろうか。
もちろん、答えはでない。合理を超えた問いに、合理的な答えなどあろうはずはない。