特別企画 妙風座談会

 

全国大会中止に伴いWeb座談会を開催

 

正信覚醒運動の経過と目指すこれから

 

 

岡田法裕師(法人正信会代表役員)

高橋恩道師(運営会議議長)

高橋信修師(運営会議副議長)

大山謙道師(教学部長)

司会進行 妙風編集室

 

 

 長引くコロナ禍によリ令和4年度も法華講全国大会が中止となったことを受けて、宗教法人正信会では全国大会に代わる座談会を開催し、その模様を『妙風』新聞紙面上に掲載することとした。そこで今般、ウェブ上で法人役員各師に参加をいただき、全国の檀信徒に法人正信会の活動方針やスタンスを示す機会としたい。

 正信会は40数年間にわたり正信覚醒運動を歩んできた。「祖道の恢復」「宗風の刷新」という大きな意義の元で運動を進めながらも、現況の変化にも応じ、より根本的な問題を明るみに出し、その是正を訴えるに至った。

 本座談会では、正信覚醒運動の淵源と歴史を振り返りながら、そうして変化してきた運動の目的や活動、目指すべき到達点をテーマとして語って頂いた。

 

 (司会) 本日はご多忙の中、本座談会にご参加頂き誠に有難うございます。コロナ禍ということでウェブ上で開催させて頂いた次第です。

 まず、覚醒運動が起こった当初のお話をうかがいたいと思います。

 昭和51年12月、菅野憲道師の論文が『富士学報』5号に優秀論文として掲載されました。論文では創価学会への批判が展開され、宗門と創価学会との軋轢が表面化するきっかけの一つになっていったように思います。

 昭和52年に入ると、創価学会の敵対行動が一気に活発化し、同年1月20日には菅野憲道師が学会本部にて吊し上げにあっています。

 そして、5月30日、千葉県涌化寺に有志僧侶が集まり、これが覚醒運動の発端となったと思われますが、この当初の目的についてうかがいたいと思います。

(高橋議長) 基本的には創価学会の横暴さが目立ってきたわけです。その中でついに、優秀論文を取り上げて、菅野憲道師が学会本部に呼ばれて吊し上げをされる事態を見て、これはただごとではないと。これは当時からすれば「創価学会の勢いを止めて宗門を守らなければいけない」という意識が芽生えてきたのだと思います。

(司会) 学会の動きとしてはそこから遡って数年前からあり、段々と顕在化してきたということでしょうか?

(高橋議長) そうですね。一々を具体的には挙げませんが、創価学会は日蓮正宗を利用することで組織の拡大を図ってきた。それが相当逸脱してきたのではないか。言ってみれば、こちら側の枠に収まらなくなってきたな、ということだと思います。

(大山部長)戦後の日蓮正宗の発展というのは、創価学会の伸張によるものです。そして、創価学会の急膨張の極めは昭和47年の正本堂の落慶の前後だと思います。

 実は日蓮正宗と創価学会の軋轢というのは戦後からずっとありました。学会が宗教法人を設立するのが昭和27年のことですが、この時にも宗門の多くの僧侶は「どうして信徒団体が宗教法人を設立するんだ」という意見があり、それに対して学会は「いわゆる宗門を護るために設立したんだ」との反論で、その辺りから摩擦はあったわけです。

 創価学会の教学や信仰をめぐり、宗門内でも、それを認める僧侶と違和感をもつ僧侶との間で軋轢が長く続いていたと理解して良いのではないでしょうか。

 ですから、昭和20年代の創価学会の勃興と拡張に対して、日蓮正宗は戦後間もない頃は70ヶ寺前後の寺院、僧侶は100余名という状態ですから、それが数万人という信徒を一気に抱えることになり、急膨張に宗門が追いつかなくなっていったのです。いろんな時代の動きが一つの形となって、このままで良いのかという意識が昭和47年の正本堂の落慶を機にして明らかになってきたのではないでしょうか。心の中では「おかしいな」「学会の言うことでいいのかな」と思っていても、それに抗する力を持ち得なかったのです。

それが、菅野憲道師の論文も然りですが、「昭和52年路線」というものが創価学会によって発表され、それは池田大作氏の「仏教史観を語る」に象徴されますが、その下準備が昭和47年の正本堂落慶から始まっていたのです。宗門を実質支配していくという路線が明らかになったために、宗門の心ある僧侶の誰もが、信徒も含めて、昭和52年の頃から具体化されて覚醒運動が発ってきた、と認識をしています。

(司会) つまり、宗門と創価学会の軋轢は、昭和52年前後に急に出てきたのではなくて、さらに遡ること20〜30年前からあったということですね。

(大山部長) そうですね。

(高橋議長) 基本的に、創価学会の会員への指導は創価学会がするというのが創価学会の一貫した考え方でしたから、僧侶の指導は要らないのだという極端なものが段々と表面に出てきた、ということではないでしょうか。

(司会) 岡田師は本山ではなく地方の末寺におられましたが、創価学会や学会員による目立った動きというものは当時あったのでしょうか?

(岡田代表) 当時は、地方によって差がありました。私のいたお寺は学会がとても協力的でした。御講にしろ様々な法要にしろ、学会員の皆さんが参詣されていました。ですから、他から入ってくる情報では「学会は駄目だ」「お寺にも参詣しない」といった話がありましたが、どういうわけか私のところではそういうことは全然ありませんでした。

 ですから、地方によって、また寺院によって、学会の態度は違っていたんですね。

 裏の方では、学会が僧侶の言動を監視していたようなことがあり、私のいたお寺の総代さんがうまくはぐらかしてくれたりしていましたが、表だって学会の変な行動はなかったです。

(司会) その地方や寺院によって、僧侶と学会の関係は良かったり、そうでなかったり、という状況が当時はあったということですね。

(大山部長) 池田氏の力が絶対的になる前までは、各地域で大幹部と言われた人達がそれぞれの信仰観で対応していることもありました。昭和20年代から昭和47年の正本堂落慶までたったの20年ですが、ものすごい急膨張でした。私も10代の時に末寺に出されましたが、朝になるとお寺の外に30人も50人も人が待っているわけです。昭和40年代は本当にものすごい勢いでした。

 それに対して、僧侶は学ぶ時間も無い、ものを考える時間も無い、そういう中で、ただ日蓮正宗の衣を一枚着ていると、その権威に対してご信徒が敬意を表するわけです。世間の堕落と一緒で、金銭的・物質的に豊かになって、自身の能力を問われること無く無条件に尊敬され一方的に持ち上げられたら、人は堕落していきます。

ある時は阿部日顕師もそういう目に遭わされた、と学会の文句を言っていましたが、その当時、心ある僧侶方は「こういう宗風でいいのか」と、学会への問題ではなくて自分達僧侶自身の問題として考えていたことも覚醒運動の底流にあり、だから、学会が駄目だということだけで始まった運動ではない、と私は思っています。

(司会) 学会が宗門に入り込んで、多大な金銭的援助をする中で、それに甘んじたことにより僧侶の堕落を生み、そのような現状に対して僧侶同士の中で「これではいけない」という思いが芽生え始めてきて、それが覚醒連動の発端の一つにもつながっていったということですね。

 単純に学会が逸脱していったというよりは、学会に与してしまっていた宗風を刷新しようという僧侶自身の気持ちが覚醒運動の発端にあったということですね。   

(大山部長) 学会教学に抗するだけの力が僧侶側に無かったということを素直に認めていいと思うんですよ。700余年の伝統と法門を伝えてきた大石寺ですが、当時の力関係とか、教学の面にしても、学会を大きくリードする力が宗門に無かったということです。

 そういうことがあって、学会教学がおかしいと思っても、何がどうおかしいのか、本来どうなのか、ということに対して宗門がリードすることができなかった。それを反省すべきだろう、というのも運動のきっかけではないかと思います。

(高橋議長) 基本的には、菅野師の論文がよくできていたわけです。そのことに啓発されて、僧侶がそれなりの学問をしていくということになり、創価学会はかなり脅威を覚えたのではないでしょうか。

 ですから、宗風的にも、僧侶がもっとしっかりしなければ駄目だ、ということが反対に起きたということですね。

(岡田代表) 一番最初に遡ってみますと、当時は学会の会館は東京と大阪くらいで、「寺院中心」というのが第2代会長・戸田城聖氏の方針だったのです。また、創価学会の前身は創価教育学会といって教育者が中心でした。

 昔の本山では、第65世・日淳上人と学会の幹部がお酒を酌み交わしたり、和やかな雰囲気がありました。

 しかし、それが第3代会長の池田氏の代になってから、どんどん会館を造り、寺院を造ったにしても会館の方に力を入れていった、そういうことも一つの要因としてあるのではないかと思います。

 お寺を造ったとしても、僧侶が贅沢をしてどうしようもない面もあったかもしれないけれど、最初の頃はそういう雰囲気でした。ざっくばらんにやっていた雰囲気がありましたが、池田氏になってからガラッと変わりましたね。

 そう言えば、池田会長が参詣していた御開扉が始まる前に日達上人が「一番偉いのが池田会長だからな」と言ったことを思い出しました。

(司会) 池田氏の代になってから学会の雰囲気がガラッと変わったというのは、具体的にどのような点が変わったのでしょうか?

(岡田代表) 方針ですね。それまではお寺を造りお寺を中心にするという方針だったのが、お寺も造るけれども、それ以上に会館をどんどん造っていくのだという方針に変わっていったのです。

 選挙でも良識の府である参議院には出るが衆議院には出ないと言っていたのが、衆議院選挙にも出て権力志向になったのです。総体革命も出てきましたね。

(大山部長) 大客殿を造り、奉安殿を造り、という大石寺の伽藍の興隆期ですね。それにからんで、創価学会が公明政治連盟を結成して政治的な力を握り、また政治的な会員獲得と同時に財務の勧募にも励んでいました。学会員は皆一生懸命ですから、当時としてもびっくりするような金額が集まったわけです。

 政治的にも経済的にも戸田氏の時代とは違って、大きなものを昭和30年代に握り始めるわけです。

 池田氏はそういうところが非常に巧みで、いわゆる自分達の存在が社会において拡大していっている、認知されている、ということを早くから見抜いていたのではないでしょうか。

 それと同時に、どうアピールしたらもっと大きく見せられるか、どうしたら内にいる会員が喜ぶか。池田氏がやってきたことは中国共産党の毛沢東の時代に戻るみたいなもので、狙っているところは北朝鮮や中国とあまり変わりがないな、というのが私の若い頃の認識でした。

 それは「庶民が大事」と言いながら、いわゆる権威をつけて、そこに人々を集中させていく、個人よりも組織が優先されるような、そして皆さんが喜ぶような、そういうアピールが上手だったんじやないでしょうか。

 池田氏は昭和35年に第3代会長に就任すると、4〜5年でその路線に持って行き、昭和40年代は正本堂建立への御供養を集めた上で、一気に力をつけました。気づいた時には「確かに宗門の権威はあるけれど、これは足手まといになる。ただ、使えるものは使っていこう」という、後に出た北条文書ではないですけれど、あきらかに路線が見えていました。戸田氏とは違う路線だったと理解しています。

(高橋議長) それは、一つは「52年路線」と言われる、池田氏の「仏教史観を語る」の中にそのことが全部含まれています。だから、52年路線を考えた時に、今大山師が言われたように、昭和27年に法人を取得して以降、昭和35年に第3代会長になって以降、そのような中で「池田先生は本仏である」というようなことが段々とできあがってきたわけです。そうすると「かえって宗門の権威は邪魔だ」という路線になっていったのではないでしょうか。

(司会) 独裁団体を作りたいという思惑が根底にあり、宗門の権威を笠に着ながら、それと同時に僧侶を骨抜きにしていくという魂胆が昭和52年に一気に表れてきたのですね。

 池田氏が独裁組織を着々と作っていく思惑と、僧侶が骨抜きにされている現状に対して、心ある有志僧侶方が立ち上がり、この2つの現状を打開し是正したいという決意が覚醒運動の動機だったということでしょうか?

(大山部長) そうですね。実はその淵源は戸田氏にもあるんですよ。例えば、政治力を利用するとか、創価学会ではその当時「総体革命」という名前が使われていましたが、その一つの姿に「水滸会」という会もあったりとか、戸田氏の時には表に出なかったかもしれません。ここでの議論には相応しくありませんが、戦前の軍部が日蓮主義を利用していたようなことにも通じるものがあるんですよ。

 なぜそれらも踏まえて考える必要があるのかと言うと「政治活動をするのが信心だ」と彼らが言うように政教一致なんです。先ほど高橋師が仰つたように「池田氏のカリスマ化」ということも平気で言われるようになってきて、それらが吹き出してきたのが覚醒運動の発端・興起だったと私は思います。

(高橋議長) 創価学会の方は「創価王国思想」というやつですね。池田氏が国主であると。そういう王国思想が戸田氏の時代からずっとあるわけです。そのことがある程度固まってきて、会員もある程度の人数になったから、52年路線というものができたのではないでしょうか。

 その反面、「では、我々僧侶とは何だ?」ということを実践していくと、「祖道の恢復」と「宗風の刷新」ということが沸々として沸いてきたわけです。日蓮大聖人が末法に遺されたものと創価学会の路線では全く違うものになってしまうのではないか、という危惧感だと思いますね。

(司会) そのような中で、昭和52年から53年にかけて、時の法主であった第66世・日達上人は、先頭に立って旗を振ることはなかったにしても、創価学会や活動家僧侶に対して実際はどのような態度や思いでおられたのでしょうか?

(高橋議長) さきほどの話でいくと、涌化寺会談で集まった人達が中心となって覚醒運動をしていこうじやないかとなっていくわけですが、そのことの芽を摘むことはされなかった。むしろ「そうだ、そうだ、がんばれ!」と、それらの人達を励まされた、ということだと思いますね。

(大山部長) 日達上人にも、一宗統率とか様々な面があったと思うんですよ。「学会がおかしいな」ということを行学講習会などでチラッと話される時もありました。

 一つ例を挙げますと、講習会の時に日達上人が「結界」の話をされたんてすよ。いわゆる注連縄とか御幣とか、そういう物に対して「ただ断定的に謗法だと言うのはどうかな。あれは結界ということを教えているだけなんだけど」と仰りながら「でも、こんなことを言うと学会に怒られるな」と仰ってました。それを鮮明に私は覚えているんですよ。だから、宗門も学会に対してかなり遠慮があったということは事実だと思うんですよね。

 そういう中で、日達上人の動きというのは微妙で、昭和51年末に富士学林で菅野師が出した論文により学会で吊し上げを受けるんですが、他にも10数名いらっしやいましたが、それらの方々が学会とぶっかった時には、その当時の創価学会教学部でしたか定かではありませんが、そこから出された浜田論文に対して日達上人が破折されたということがあるんですよ。ということは、日達上人もこのままではいいと思っていらっしやらなかったということです。

 ただ、日達上人が道を開いたとか、号令をかけたというのは違うと思いますね。これは佐々木秀明師から直接聞いた話ですが、日達上人から電話を頂いて、「お前ら、もっとやってくれ。そして俺を押してくれ。突き上げてくれ」というような表現で話されていたということですので、あながち、間違いではないと思います。

 いわゆる、宗門の総体の思いとして学会を正したい、ということだったのではないでしょうか。その辺りは岡田師へ、その当時はもうご住職ですから、どう受け止めておられたのか聞いてみたいと思います。

 (岡田代表) 皆ガンガンやっているので「何をやっているんだろう」とのんびりしていました。それが「池田本仏論」や『人間革命』が現代の御書であるという話が入って来て「これはおかしい」と思い、この運動を始めました。

 (高橋議長) 日達上人は「どうも創価学会は言うことを聞かないな」と思い始めた中で、反対に宗務院の役僧は、早瀬師や阿部師ですが、学会本部へ行ってゴマをするわけです。そういう両者の間での軋倅も「困ったなあ」と日達上人は思っておられたのではないでしょうかね。

 (大山部長) その当時、早瀬師や、後に法主を詐称する阿部師はある面、学会への内通者ですよね。そういう認識でしたよ。学会と通じていると。だから、日達上人にしてみれば、宗門で話したことはそのまま学会に情報として入ってしまう、そういうジレンマはあったのではないでしょうか。

 それが端的に表れるのは、運動が始まったとされる昭和52年の翌年の時事懇談会(※昭和53年2月22日に大石寺にて開催)ですよ。

 時事懇談会において日達上人は「直面する問題を遠慮なく言ってくれ」「協議しよう」と仰って下さいましたが、時事懇談会での様相が当時の正直な姿ではないでしょうか。

 そうして覚醒運動を推進する活動家僧侶が宗門を憂い、祖道の恢復と宗風の刷新を訴える一方、懸命に学会を庇っていたのが早瀬総監であり阿部教学部長でしたよ。それは今でもしっかり資料が残っていますから、その発言録を見れば明らかです。

(司会) 日達上人には、周りの直属の取り巻きの役僧方が学会におもねる傍ら、心ある僧侶方は現状を打破しようという想いを持ち、そのバランスを取ろうとしながら、内心では学会や宗門の現状を是正したいというお気持ちがあったということですね。

ちなみに、何年か前に藤川信澄師が「覚醒運動は日達上人との契約だ」というような話をされましたが、契約とはどのようなことを言ったものなのてしょうか?

(大山部長) 日達上人との契約ではないでしょう。藤川師が言わんとしたことは、覚醒運動は創価学会に限定して是正を図っていくということです。ですから、全面的に宗門と相対したり、またその当時、中嶋廣達師が言われましたけど「何も足さない、何も引かない」、あのような表現の底にあるのは学会と蜜月で歩いていた昭和30年代の信仰観・教義観てすよ。そこを踏み外すことはないという仲間内での会話が藤川師の中に残っていたのてはないでしょうか。

それは先ほど、涌化寺会談の話がありましたけど、藤川師は最初から参画していましたから。佐々木秀明師、渡邉廣済師、荻原昭謙師、丸岡文乗師、山口法興師、そういう方々のもとで藤川師も参画していたので、いわゆる「そういう所までの話ではなかったのではないか」ということを、彼は「契約」という一方的な表現を使ったんだ、と私は理解しています。

(高橋議長) そうですね。その通りですよ。要するに「この正信覚醒運動の中身には対・創価学会というものはあった。それは契約だ。しかし、宗門を攻めるという話にはなっていないんだ」というのが藤川師の主張だと思います。

(司会) 宗門を出てまで、宗門自体や僧侶自身と相対する思いはなかった。あくまで宗門を利用しようとしてきた創価学会を是正することに覚醒運動の目的があるんだという思いがあって、今現在もその思いでいらっしゃるということでしょうか?

(大山部長) それが結局は法人と任意との分裂までいったことの底流にある、ということです。

(司会) そのような中で、昭和54年に日達上人がご遷化されて、阿部日顕師が法主を詐称して貌座に登るということになっていきますが、日達上人のご遷化を通して、またその後に、覚醒運動の方向が変わったとうことはあったのでしょうか?

(高橋議長) いや、直接は変わっていないでしょう。しばらくは、阿部師の詐称は間違いないんですけど、詐称というのは「前年の4月に相承の話を聞いたんだ」というのが阿部師からの発表ですから、それはまったく余人には訳の分からない話ですよね。だから、それならそれで多少お手並みを拝見しよう、ということだったんだと思いますよ。

(大山部長) 当時の宗門の教師僧侶の約7割の方が正信覚醒運動に参加して活動したわけです。活動家僧侶という名前が今も残つています。

 そうすると、阿部師は血脈相承を偽って大石寺第67世を名乗り宗門を牛耳ったつもりでも、身動きができないわけですよ。こちらもそれほどおかしなことを言っているわけではないことは阿部師も分かっているわけで、ただ「学会は必要なんだ」という認識は一貫していましたから。

 おそらく貌座に登る時に池田氏と話ができていたんだと思います。そうでなければ、あそこまで強気に出られないと思います。それが昭和54年から55年にかけての話です。

 阿部師は「第3回檀徒大会を本山で開いても構わない」として、第3回も第4回も出席したわけですから。そして第5回を開こうとしたら「自分の管轄外でやってくれ」ということで日本武道館での開催になっていったわけです。

ただ、運動の中では、日達上人のご遷化は大きな意味がありました。日達上人は積極的ではなかったかもしれませんが、覚醒運動を一応認めておられましたから。

 しかし、阿部師は違いました。そのため覚醒連動から身を引く僧侶が次々と出てきたわけです。それは名簿を見ればすぐ分かります。誰が出て行ったのか、どういう状況だったのか。

(高橋議長) 第3回檀徒大会(※昭和54年8月25日開催)というのは本山の大講堂で開いたわけですよ。そして第4回(※昭和55年1月26日開催)も本山にて開けたのですが、その席上で阿部師は「宗務院の方針に従わないのは法主の私を否定することだ」、更には同年7月4日の全国教師指導会において「法主の心に背いて唱える題目には功徳がない」というようなことを発言してしまったわけです。「これは日達上人の時代とは違うんだな」という感じの覚醒運動の動きになっていったのはその辺りからです。

(司会) 日達上人のご遷化の前には『継命新聞』が創刊されていますが(※日蓮正宗全国檀徒新聞として昭和54年4月28日に創刊)、創刊した当初の目的というのは、基本的には活動家僧侶の主張や活動を全国に紹介したりすることが目的だったのでしょうか?

(大山部長) 丁度その前後に大きな動きがあって、池田氏が法華講総講頭を辞任(※昭和54年4月26日)ということになるんですよ。これは大きなニュースであると同時に、かねて宗門において信徒向けの新聞は一部出されてはいましたが、力もありませんでした。しかし、その当時、大勢の学会員が学会を辞めて、それは20万人とも30万人とも言われたんですよ。この方々に伝えていく媒体、それには新聞が必要だということがその少し前から考えられて、日達上人の命名で『継命新聞』が発刊されたという流れです。

(高橋議長) ですから、日達上人が「継命」の題号の文字をお書きになっていますが、それは「頑張れよ」ということでしたからね。

 ただ、阿部師になってからは継命新聞に対して宗務院からの圧力がかかり始めるわけです。  

(司会) 第5回全国檀徒大会(※昭和55年8月24日に東京・日本武道館にて開催)の時には、阿部師は態度を硬直化させ本音を出し始めてきたということですね。

(大山部長) そういう意味でも第5回大会は大きな意味があったのではないでしょうか。

(高橋議長) 日本武道館での第5回大会の時には「え? あの人も?」というような方も含めて、かなりの人数の僧侶が参画していました。その後に処分が下され、段々と削ぎ落とされていったわけです。

(司会) では第5回大会というのは、阿部師にとって、言ってみれば踏み絵のようなものだったのでしょうか?

(大山部長) そうです。まず最初に運動から退却していった方達はこの大会からです。それまでは自分で喋って、学会の批判をしていたわけですから、自分の発言に責任をもって何とかっいてきたのでしょう。

 しかし、「大会に参加したら処分するぞ」というのが宗務院の命令でしたから、それを否定して参加するということは阿部宗門と対峙するということになるわけです。

 そこである程度の人達が運動を下りてしまうわけです。

(司会) 第5回大会の時には、阿部師や宗門自体に対する意見は特に無くて、基本的には対・学会というスタンスだったのでしょうか?

(大山部長) いえ、そうではありませんでした。

 実は、同じ年の5〜6月に宗会議員選挙があるんですよ。この選挙において、得票率の7割以上は正信会系が獲得するのです。今は正信会と言いますが、当時はまだ活動家僧侶と言っていましたが、そちらから意見も出しました。議員の定数は16ですから、16議席全て取る勢いで選挙に臨んだのです。

 その時にはすでに「宗風の刷新」も出ていたし、「祖道の恢復」に準ずる文言もそこにはありました。それも踏まえて選挙の結果、10議席を活動家僧侶が握ったわけです。そして宗会議長に正信会の久保川法章師が就任します。

 この結果に対し、阿部師だけではなくて池田氏も怖がったわけです。宗会には権限がありますから。活動家僧侶は、表向きはそれまでの長い積み重ねで「御法主上人」という近代の富士門の信仰観がありましたから、表だっての阿部師への批判というよりは、学会批判を通しながら宗門批判をしていく、というような形であったと思います。

 そして、この武道館での大会を過ぎてから全面対決へとなっていくわけです。

(司会) この武道館での第5回大会の丁度1ヶ月後に、最初の活動家僧侶の擯斥(※)処分となっていくわけですね。[※擯斥=宗外への追放処分]

(高橋議長) 第1次として処分を受けたのは201名にのぼりました。以下、その内訳です。

・住職の罷免  5名

・2階級降級  13名

・2年の停権  23名

・1年の停権  155名

・譴責(※)   5名

※譴責=最も軽い懲戒処分)

 結局、「住職の罷免」を断つた5名が、それにより擯斥になったわけです。

(司会) いきなり全員の擯斥ではなかったのですね。

(高橋議長) そうです。それが昭和55年9月24日ですから、罷免を断つた住職5名は9月30日に最初に擯斥処分となっています。

 実際は2〜3年かけて擯斥処分になっており、それは正信会有志僧侶184名が昭和56年1月21日に阿部師の管長地位不存在を裁判所に訴えたことによります。

 以下の2次から8次までは「血脈相承を否定した」ので擯斥というものです。

・昭和56年2月9日

  久保川師が擯斥(第2次)

・昭57年2月5日

  11名が擯斥(第3次)

・昭和57年4月5日

  26名が擯斥(第4次)

・昭和57年8月21日

  42名が擯斥(第5次)

・昭和57年9月16日

  40名が擯斥(第6次)

・昭和57年9月24日

  54名が擯斥(第7次)

・昭和57年10月16日

  3名が擯斥(第8次)

 と、ジワジワと擯斥処分されていくわけです。

 そしてなんと言っても、阿部師が創価学会とつるんでいたと言うのは、顧問弁護士が創価学会の弁護士なんですよ。桐ヶ谷氏を筆頭とする10数名の弁護団です。ですから、創価学会と緻密に打ち合わせをして、最終的に擯斥にしているわけです。

(大山部長) 創価学会の池田氏と詐称法主の阿部師が手を組んでいたのです。正信会の者を全て首にしてくれれば寺も200ヶ寺造るし、正信会が居座っているお寺のそばにも造っていくと。なおかつ、大石寺では学会の幹部のような人を新たに得度させていくのです。

 ですからこの頃は、阿部師と池田氏が物・心の両面にわたって完全に一体化していたのです。今になって宗門が学会がどうのこうのと馬鹿なことを言っていますが、二人三脚どころじゃない、合体です。それが何年も続くわけです。

 それはきちんと記録に残しておかなければなりません。阿部師がやったこと。阿部宗門が歩んだ姿。それは我々の覚醒運動の反面教師でもあるし、我々の存在の意義にも通じてくることだと思います。

(高橋議長) 平成3年11月28日に宗務院が創価学会を破門しますが、我々を処分してから実に11年ですよ。その前の平成2年には雲行きが怪しくなっていき、次々と手を打っていって、平成3年に破門した、ということです。

 それは池田氏にしてみれば、よもやこんなことになろうはずがない、と思ったのではないでしょうか。

(大山部長) 当初は阿部師と池田氏の利害が一致していたのです。阿部師と池田氏は乱暴なことをしました。日蓮正宗の教師僧侶の3分の1を擯斥にしたのですから。これは教団にとってみればすごいことなんですよ。そういうことを力尽くでやるというのは、この2人は今のロシアのプーチン大統領と何ら変わりません。権力で何とかなると思っているんですから。

(高橋議長) 阿部師と創価学会にとって、一番うっとうしかったのが日達上人だったのです。その日達上人がご遷化されたから、残ったのは正信会だけだと、こういう腹ですよ。それで正信会の連中さえ宗外に追放すれば後は万々歳だと、こう考えたわけです。

(大山部長) その結論に至る背景には、学会が大きくなっていく中で、信徒獲得に向けて日蓮正宗の歴史と伝統と権威を大いに利用しようとしたことにあります。その影がここにも落ちているわけです。本山さえ取れば、法主さえ操れば、権威さえ握れば、後はなんとでもなる、と。

 いつの時代でも独裁者がやっていることは一緒です。ですから、それに対して庶民が賢くならなければならない。この運動はそういうことではないかと思います。

(高橋議長) その阿部師が「池田大作は謗法だ」と言うんだから驚きです。

(司会) 創価学会の破門というのは、池田氏にしてみれば想定外だったのでしょうか?

(高橋議長) そうでしょうね。勿論、破門に至るまでは様々な諍いが2〜3年続いていくわけですが。

(司会) 創価学会は、いよいよ組織が磐石になったから宗門は要らないということで、敢えてそのような方向へ持って行って、脱皮するような形で、表だっては喧嘩別れのような形で出て行ったという面もあるのでしょうか?

(大山部長) そのような面があったにしても、それでも今でも本音の部分では宗門を飲み込みたいと思っているはずですよ。なぜなら利用価値が高いからです。

(高橋議長) 日蓮正宗の権威を利用して、創価学会は一生懸命頑張ってきたわけです。その権威と権力がぶっかってしまったわけです。結局は、阿部師の方が創価学会を破門にしたということだと思います。だから、逆に見れば、日蓮正宗に残っているのは権威しかない、ということです。

(大山部長) 学会は自由にはなったのですが、その自由さを徹底できるかと言うと、そうでも無いわけですから。基本的に日本人は権威に弱いところがあります。ある程度の上の人はそれを知っているわけです。権威というのは力がそんなに要らないのです。権威自体が漠とした力だから。それは支配する側としたら有難いことなのですが。

 

(前号からの続き)

【布教所の全国展開】

(司会) さて、正信覚醒運動を進める活動家僧侶が次々と宗門から擯斥処分を受ける中で、昭和56年頃から全国に布教所が開所されていきます。この開所に対して、宗門内では協力する僧侶もいれば、逆に目障りに思う僧侶もおられたと思います。

 岡田代表は、ご自身が所属する中国教区において布教所が次々と開所していく際、全面的に協力し、種々のバックアップをしながら、布教所の開所に尽力しておられますね。当時としては宗門や学会の意向とは全く逆の風向きの中で、どのような思いがあって協力されたのでしようか。

(岡田代表) 日達上人の御遷化の後、阿部日顕師が相承を偽証し法主を詐称して宗門支配を強烈に進めると、山口県と広島県の覚醒運動寺院は私のお寺だけとなりました。

 信心をする上で、やはり近くにお寺がないと宗教活動は成り立ちません。足が遠のくと、また時間も経って年代が変わってくると、信仰する方がどんどんいなくなってしまいます。

 ですから、山口県内や広島市や三原市等、そのような近隣にお寺や布教所を建てた方が良いのではないか、という気持ちから山陽・山陰の活動家僧侶が始めたことです。

 また、活動していた寺院が転向し、その寺院の在勤者や学会を退会した信徒の受け皿が無くなり、その受け皿の必要性も感じました。

(司会) 当時は僧侶だけでなく、学会の現状に対して「これではいけない」と学会を辞め、正しい信仰を求めようという信徒も大勢出てこられました。

 そのような方達の受け皿として布教所が全国に展開されていきましたが、布教所の開所の目的は「対学会」と言うよりも「信徒を正しい法門と信心へ導きたい」という気持ちや目的があってのことだったのでしようか?

(岡田代表) そうだったと思います。

(大山部長) その当時、武道館(昭和55年8月24日開催の第5回全国檀徒人会)の前後から在勤教師(住職になる前の教師僧侶)の末寺派遣が問題となっていました。また、我々は住職派遣の順番待ちでもありました。

 私の同期も本山の衛坊に入り始めていて、ほとんどが覚醒運動をしていましたから、大阪に集まり「どうしようか」と相談したことを覚えています。本山から住職の任命を受けて末寺に派遣されていく中で覚醒運動を続けることは難しく、また派遣を断われば自力でやっていくしかない現実を意味しています。

 また、武道館後の同年12月、阿部日顕師に対して相承の疑惑に関するお伺い書を出しました。それは”基本的に阿部師を法主として認めない”という意思表示をするわけですから、身の振り方や、覚醒運動を伝えてきた縁故のご信徒をどうするか、ということになってくるわけです。

 (司会) 「覚醒運動を諦めて宗門に残る」か「覚醒運動を継続するため宗門を出る」という決断と覚悟を迫られていくわけですね。

(大山部長) そうですね。そういう経緯を経て、55年の暮れから布教所が芽生えてくるのです。

 ただ悲しいかな、布教は学会ができてから宗門主体で取り組んだことはわずかですから、どうしていいか分からないわけです。布教についてはほとんどが学会のお膳立てで、昭和20年代から50年代まで、宗門はおんぶに抱っこで来たわけですから。我々は、布教のやる気はあってもどうしていいのか分からない。

 そういう中で、55年の12月でしたか、本山在勤の同期で群馬にいた下道貫法師が「もう自分は在勤しないで、ここで法門の研鎖とご縁のある信徒の教化をしていきたい」と布教所を開所されました。

 その頃、私も開所の準備を進めていたところでした。個人的なことをいえば、私が在勤していた讃岐本門寺の当時の住職は阿部日顕師なんですよ。ですから、阿部師に対して法主の地位にあることを認めないということは、そこに在勤し続けることはほとんど不可能なことを意味します。

 また、横浜在住の同期生の島田師とか、在勤させて頂いていた妙寿寺さんを説得して運動に入ってもらったこともあって、お二人とも武道館の後は身を引くと仰ってましたから、「横浜で0から始めるのもいいかな」と思い、翌年2月7日、横浜でアパートを借りて布教所を開きました。

(司会) 私の師匠も、見ず知らずの土地に着の身着のままで山口へ来て、ボロボロの廃屋同然の借家で突貫工事をして開所し、全くのゼロからのスタートだったといいます。宗門から擯斥され何の後ろ盾もない状況で、いずれの布教所もご苦労を重ねて開所され、布教に邁進されたのでしょうね。

(大山部長) その年に、全国で20数力所の布教所が開所されましたが、「阿部日顕師の相承を認めない」という一つの運動のあり方から出てきたものと、「”宗風の刷新””祖道の恢復”と言うのであれば、まずは自分たちも身を捨ててゼロからやってみよう」という志がそれぞれの布教所の住職にあったのではないでしようか。

 自力で布教所を構えられる人はほとんどいませんでしたから、みんな借家からのスタートでした。仏具も無ければ仏壇も無いような粗末な所で、ご縁のある先輩諸師にご助力を頂きながら布教を始めていきました。

 布教所を開所した我々に対して、その当時、覚醒運動の先輩方の中で止めようとする人はあまりいませんでしたね。

 ただ、未知のことですから喜んで迎えた方も少なかったです。岡田代表は珍しいです(笑)。

 20数力所の布教所が、それこそ何も無い徒手空拳で立ち上がっていったというのが覚醒運動の一つの姿だったと思います。

(司会) 活動家僧侶の擯斥処分や、その後の布教所の全国展開が、覚醒運動における「祖道の恢復」「宗風の刷新」という目的がより具体化し、さらに「対学会」よりも「僧侶自身の内面の向上や、正法を求める信徒の救済」へと目的が変わっていったターニングポイントになったということですね。

(大山部長) そうですね。特にご信徒の方が、寺院らしい伽藍や仏具も何も無い本当に粗末な民家での布教所で、しかもあまり人柄もよくわからず、ただ熱を込めて訴えているだけの若い僧侶を信頼して、共に運動の道を歩んでくれたということは信仰の宝ですよ、我々にとって。

 そのような僧侶を信頼して下さったご信徒の方々に布教所の住職は感謝していると思います。

(岡田代表) 先ほども言いましたが、布教所ができたのには、覚醒運動をしていた僧侶が転向してしまったためでもあります。そうして信頼するお寺と僧侶を失ったご信徒方が当寺をたずねてきたりしていました。

 ですから、そういうご信徒方のために、身近な所に布教所を建てて開所した方が後々良いのではないか、ということもあったわけです。

(大山部長) そうですね。中国教区では岡田代表を除き、広島県下と山口県下の全ての寺院が覚醒運動をやめてしまい、その空白を埋めるため布教所ができた経緯がありますね。

 

【創価学会の破門】

 

(司会) そうして昭和56から57年にかけて全国に布教所が開所されていき、旧寺院も含めて正信覚醒運動を進めて行くわけですが、そのような中、平成3年に創価学会が宗門と仲違いをして破門されます。

 そのタイミングで、覚醒運動において具体的な変化や影響はあったのでしょうか?

(大山部長) 当初の覚醒運動のきっかけは「創価学会の謗法・邪義の是正と社会的不正の糾弾」にありましたが、その後、学会はうまく阿部師の陰に隠れてしまいます。

 ですから、正信覚醒運動のテーマはどちらかと言えば「祖道の恢復」にありました。いわゆる学会教学に染まってしまった宗門教学ですが、勿論その前段階には中世から近世にかけての宗門の混乱もあるのですが、そこで「本来の宗開両祖の教えとは如何なるものであったのか、それを探究する必要があるだろう」という方向へと展開されていくことになります。

 当初は、阿部師や阿部宗門がとんでもない教義を展開するものですから「それはおかしいだろう」という所から始まり、そこから宗門との法義論争が展開されていきます。

 しかし、それも昭和56年から60年くらいまでです。なぜなら、興風談所の方々の宗門への教義批判に対して宗門は答えられなくなるんですよ。宗門からの明確な反論が無い状態になってしまいましたから、それきり昭和60年辺りで論争が収まってしまったのです。ただ、そういう中で、学会との問題が隠れてしまうことになります。

 昭和末期の時代はこのように法義論争に明け暮れましたが、今度は「覚醒運動とは何か」「覚醒運動はどこへ進めていくべきなのか」という方向へと変わってきます。

 そして平成2年の大石寺開山700年がポイントだったと思うのですが、その段階で阿部師と池田氏の対立から決裂ということになるのです。

(司会) そのタイミングで「覚醒運動は当初の目的が果たされたのだから宗門に帰ろう」と考える人も出てきたのではないでしょうか?

(大山部長) 「学会が宗門と離れたのなら宗門に帰ろうか」と言う人が出たのも事実です。一部の僧侶や一部の信徒の間でそのような動きはありました。

 ですから。その方々の関心は「対学会」にあった、ということです。覚醒運動のメインロードである「祖道の恢復」「宗風の刷新」とは異質のものがあったのではないでしょうか。そういう背景がこの頃にはありました。

(司会) 大多数の正信会の僧俗にとっては、「祖道の恢復」「宗風の刷新」という大きな運動の目的の中では、学会が破門されたからといってすぐさま「宗門に帰ろうか」ということには繋がらなかったということですね。

(大山部長) 大体はそうですよね。

特に宗門では「阿部師が自分の権威を守るため、戒壇本尊を唯物化するような拝し方になっていったこと」や「『御書の解釈権は法主にあるのだから法主の解釈に従わなければいけない』という法主本仏的な発想」が強調されてきましたから、そのような主張に対して多くの正信会の僧俗はやはり馴染めなかったのではないでしょうか。

(司会) 当時、正信会僧侶の中で、実際に宗門へ帰られた方はいらっしやったのですか?

(大山部長) いましたよ。古谷得純師とか、その頃ではないですが私の同期の原田篤道師も帰りましたね。他にもおられましたが、本当にわずかですね。学会が破門される前から帰った方もおられます。

 それには、宗門という権威とか、戒壇本尊への信仰とか、様々な理由があったのだと思います。

 ただ、割合からと極めて少なく、擯斥処分を受けてから宗門に帰った人は10の指に満たないくらいです。脱落者は少ないと思います。

(高橋議長) 平成5年の最高裁の判決が出るまでは、正信会と宗門との間ではずっと裁判が継続している状態でした。

 平成3年に阿部師が創価学会を破門しますが、平成5年に最高裁で双方却下の判決が出るまでは「対宗門」を前提とした対策を考えざるを得ませんでした。

 そういう中で阿部師は「私の心に背いて唱える題目には功徳が無い」とか、そういうことを言い始めて、そのまま宗門は法主本仏論へと行ってしまうわけですから、これではとてもついて行けないな、と考える人が多かったということでしょう。

(司会) 正信会から宗門へ帰山された方達は、個人的な問題とか考えで帰山されたということであって、平成3年の学会の破門において、覚醒運動や正信会への目立った影響は無かったということですね?

(大山部長) そうですね。その時は見ているだけで、あえて動きませんでしたね。それよりも「もっと自坊や各自の力をつけていこう」という方向だったと思います。

 学会を破門した時に阿部師は「正信会の者共が言っていたことは本当だった。彼らは正しかった。私は迂闊だった」とまで言っているんですよ。かと言って、正信会に帰山を勧めることもありませんでした。阿部師は、自分が権威を持った上で、そこにひれ伏すよう求めるだけで、それでは正信会の動きは変わるわけがないんですよね。

 ですから、宗門から学会が離れた後、従前のように学会が嫌でおかしいと思って覚醒運動に入ってくるご信徒がほぼいなくなるんですよね。

(司会) それは何故でしょうか?

(大山部長) そういう人は「戒壇本尊」「大石寺」「日蓮正宗」との名前とか権威とか、それらに惹かれて宗門に流れていくわけです。

 一方で、正信会のネームバリューがさして大きくないのに加え、アピール活動も弱かったからだと思います。

 ただ、それにも背景があるのです。学会や宗門の批判をするということは。

 「権威化をしない」

 「覇権主義にならない」

 「信仰を強制しない」

 ということですから、それではある意味、信仰や活動が弛緩するんですよ。そして自立自存を求めていくでしょう。そうなると、民主主義と一緒で、なかなか強固な組織や団体を維持するのは難しい面があって、運動としては停滞しているような形に見えるのではないでしょうか。それが、学会と宗門が決別してから10数年の正信会の姿だったのではないかと思います。

 

【平成期の運動の流れ】

 

(司会) 平成3年から平成の時代を辿る中で、平成5年には最高裁における双方却下の判決があり、10年ほど前には正信会として包括法人を取ることを巡って分裂していくという動きがありましたが、この辺りでまた覚醒運動の目的や方向性が変わってきたということはあるでしょうか?

(大山部長) 平成5年に出された最高裁の判決によって「既存の寺院における一代限りの居住権」が認められましたが、これは言い換えれば「現在の信仰の道場を今後は維持することができない」ということです。

 ですから、当然そこには自前の道場を構えて、法を護り伝え、信徒が安心する道場の建立が喫緊の課題となってくるのです。

 それが平成5〜6年くらいからのことで、いわゆる布教所も、従来の一代限りの居住権と活動を認めて頂いた寺院も、ここで同じ立場に立つんですよ。

(司会) 例えば、高橋副議長の所も、いわゆるご自分の師匠(高橋信行師)のお寺(新潟県法遊寺)をやがては宗門に返さなければなりませんので、そこで新寺院の建立が図られていくことになるのですが、法遊寺さんのお寺の動きもその頃からでしょうか?

(高橋副議長) 最高裁判決後から新寺院建立の必要性が話し合われたのではないかと思います。平成12年に新寺院建立護持会が発足し、基金を募り始めておりました。

 菩提寺(現在の新潟県興信寺)が建立されたのは私が長岡の法遊寺へ戻った後のことです。

(司会) 新寺・興信寺の建立の準備を進めていくにあたり、法遊寺さんの覚醒運動に対する考え方や、運動を継続していく上でのお気持ち等をうかがったことはありますか?

(高橋副議長) 私は学生時代から埼玉県法潤寺(坂井進道住職)に在勤させて頂き、師匠の元よりもご住職の元でお世話になっておりましたので、その頃はなかなか師匠と直接話す機会はありませんでした。

 法潤寺では、すぐ隣が学会の会館だったのですが、そこでは法潤寺さんが毎晩、学会の非を訴えておられたのが記憶に残っています。

 あらためて思い返してみますと、私は師匠を始めとする先輩方の後ろをついて行くだけで、覚醒運動の年表を拝見しても、大勢の先輩方が尽力されて今があるんだなと感謝するばかりです。

 それと同時に、今の正信会の有り様が当たり前ではなくて、様々な権威から脱皮したり、横暴な権威や謗法を批判したり、そういう長年の尽力の積み重ねがあってこそ、今こうして大聖人の教えを自由に学べる雰囲気が正信会にはあるのだと思います。

 ですので、これは当たり前と言うよりも、これは先達の皆さんが尽力して来られたお陰だなと常々感謝し、今あらためて思ったところです。

(司会) 会内の若手僧侶である高橋副議長は覚醒運動後の出家得度であり、正信会において教師を叙任されていますね。

 私も同じ立場ですが、言ってみれば宗門とは全く縁もゆかりも無い形で、この正信会において僧道を志ざし歩んでいます。

 正信会の僧侶として僧道をこれまで歩んできて、そしてまたこれからも歩んでいく上で、その動機はどのようなものがありますでしょうか?

(高橋副議長) まずは、個人的なことではありますが、長い間他人である私を育てて下さった法潤寺ご住職や奥様、法華講の方達へのご恩に報いていきたいと思っています。

 いつも思いますが、日興門流の原点や源流の法門と教学を、自由に求めたり語ったりすることができる今の状況にあることへ、感謝を忘れてはならないと思っています。それは、これまで覚醒運動を椎進してこられた方々のお陰であると思います。

 例えば、ご信徒との会話において、大聖人のお言葉を大切にしながらも、大石寺の歴史についても正直に話し合える環境は大変有難いことだと思っています。

 そうした今の環境を大切に維持していく中で、ますます大聖人の教えをまっすぐに学びながら次代へと繋げていきたいと思っています。

 それが僧侶としての私に課せられた課題であり、覚醒運動を継承していくことだと考えています。

(司会) 覚醒運動を歩んでいく中で様々な教学観や法門観が昇華されてきたこともあります。

 例えば「罰・功徳論」も変わってきたことと思います。以前であれば、もしかしたら今も一部ではそういう見方もあるかもしれませんが、例えば「病気になったら罰だ」とか「事故したら罰だ」とか、逆に「治ったから功徳だ」とか、そういう価値観に基づいた罰・功徳論が当たり前とされていた而もありました。

(高橋副議長) 以前、知り合いの学会員がガンを患らい、そのことを何気ない会話の中で打ち明けられたことがあります。その人の隣近所もほとんどが学会員なのですが、ガンになったことを周りの学会員に言えないと言うのです。同志であるはずの学会員にはガンのことを隠しており、私へ初めて打ち明けたと言うのです。

 おそらくですが、もし「ガンになった」と言えば、やれ「題目が足りないからだ」とか、やれ「現罰だ」とか、そういうことしか言われない可能性があったから学会員の仲間には言えなかったのではないかと思いました。

 勿論、学会員も全てがそうだとは思いませんが、苦しみを分かち合ったり、幸せを喜び合ったり、ということではなくて、「健康になれば、お金持ちになれば、発展すれば、それが信仰の功徳なのだ」となり、逆のことが起きれば「信仰が足りないのだ」「罰があたったのだ」という単純な罰・功徳論で学会は、そして宗門も、これまで来たように思います。

(司会) 仏教の観点から見れば、その罰・功徳論は誤った捉え方なのでしょう。

 仏教が「苦」から始まった宗教であることを考えれば、「苦があって当たり前なのだ」その当たり前の苦をどう捉えてどう乗り越えていくのか」という視点を持てるようになることに仏教の本来の目的があると思います。

 その四苦八苦の生涯においても、嬉しいことがあった時はお互いに分かち合えば喜びは倍になるでしょうし、逆に辛い時には励まし合えば苦も半分になります。それが菩薩の心だとも説かれます。

 その辺りに仏教が根本とする価値観があって、正信会もそのような罰・功徳論でもって法門観を段々と是正し昇華させ、本来の仏教の姿に立ち返ってきたように思います。

 

【覚醒運動の今後の展開】

 

(司会) そういう思いもあって、今年から「まなぼう法門、かたろう信心」という新しい活動方針になりましたが、その根底には今申し上けたようなことがあると思います。

 信心を語り合うことは、つまり喜びや悲しみを分かち合うことであり、その喜びや悲しみをどう捉えていくのかという智慧を磨いていくところに法門を学んでいくということがあると思います。

 正信会が40数年間にわたり培ってきた正信覚醒運動の目的が昇華され、それが今年からの活動方針に含まれ反映されているのではないかと私は考えています。

 その新しい活動方針に絡めて、今後の正信覚醒運動が歩んでいく方向性について、最後にお一人ずっお聞かせ願いたいと思います。

 

(岡田代表)

 ●科学と宗教の関係

 故・春日屋仲昌博士の「科学と宗教」『法華会刊行「法華』に掲載)にこうあります。

 「宗教には科学で確認できない面もありますが、科学の真理と力を認めるとともにその限界を知り、それを乗り越えていく力、心の支えとなるものが宗教です。」

 「宗教は、このように最も根源的であるべき価値観を無限に高めて、どのように困難な問題に対しても最も優位な場から、究極的な回答を与え得るような、心の能力を付与するものである、と私は思うのです。」

 「科学に限らず、政治や経済を動かすのは、社会を構成する人間個人個人であって、人間の心の問題をほかにして他を論ずることは全く無意味であるからです。」

「宗教間に望むことは、正しい宗教の普及に努力するとともに、科学的精神を学び取って、宗教界より迷信的な要素を一層することです。」

 法華経の教えを青年期から大切にされていた春日尾博士は、科学と宗教の関係について以上のように述べられています。

 いくら科学が発達したとしても、それを核兵器にしても、今のロシアとウクライナの問題にしても、核兵器のボタンを押すのは人間ですから、結局は何でも最後は人間自身が決断して実行するのです。

 ですから、人間は正しい信仰をしっかり持つことが何より大切だと思います。心に響くような、心が豊かになるような信心をこれからも訴えていきたいという気持ちがあります。

●今後の寺院運営と運動継続

 それともう一つは、これから現状を維持することがどんどん難しくなってくることに対して、私は次のような考えを持っています。

 ある1ヶ寺において周りの寺院の住職さん方が亡くなられた場合には、その1ヶ寺の住職が自坊だけでなく、その周りの寺院をまとめてみるようになるでしょう。その場合、周りの寺院には、普段は誰か守をするような人がいて留守を守る。そのような感覚で、利便性と、尚且つきちんとした信仰を継続していくことができる形を作らねばいけないと思います。

 あまり遠くから僧侶を派遣すると大変な労力を要しますから。「1+1」が「1」か「O」ならまだ良いのですが、「1+1」が「マイナス」になってしまうと双方が潰れていってしまいます。

 僧侶は一朝一夕では育成できませんし、一人前まで育成するにも多大な努力と時間を要します。そうして僧侶をすぐには増やせない状況ですから、正信会ではこれから僧侶が少なくなって来ます。

 しかし、僧侶不足の現状においても、寺院の運営においてはそういう「マイナス」になるようなことにならぬよう、勿論”心”も大切ですが、寺院を維持して運動を継続していける”形”も大切にすることが大事ではないかと考えています。

 正信覚醒運動の現状における喫緊の課題の一つとして、議論を重ねていって頂きたいと思います。

 

(高橋副議長)

 宗門や学会との法義的な論争において、矢面に立たれているのが興風談所の方々だと思います。そうした論争のやり収りや内容をしっかりと学び、会内でも議論を重ねていくことにより、大聖人と日興上人の教えがより明確になっていくことを願っています。

 そして、目の前のご信徒と共に、大聖人が説かれた教えを信じ学ぶ同志として、苦楽を共に分かち合い歩んでいく日々を大切にしていきたいと思っています。

 

(大山部長)

 今日はこのような座談会を開いて頂いて有難うございました。運動の当初から平成10年前後まで、それぞれが党醒迎動の意義を再認識して、一運動を護り伝えていく、そのために布教所を建立していく、というのが本日の大まかな流れですね。

 その後、名称裁判とか、任意団体との意見の違いなど、我々の進んできた道について整理し、確認する機会があれば有難いと思います。

●覚醒運動に自信を持とう

 今、岡田代表がふれましたが、覚醒運動も時代の制約を受けているわけです。この時代を我々は任されているわけです。

 自分達は、気がつけばご縁があって大聖人の教えに出会い、仏縁があって僧侶の末席に加えさせてもらって、昭和の時代の半分を生きてきて、平成を経て令和へと入っています。

 我々が自分の足で歩んできた信仰の道、そこでかかわった正信覚醒運動、それに対してもっともっと自信を持っていいと思うのです。

 世間でも信仰に縁する方は大勢いらっしゃいます。仏教に縁する方もまた大勢いらっしゃいます。

 でも、損も得も超えて、信じたものを大切にして、それを自分の人生の柱としたことは僧俗共に誇りに思っていいと思いますし、必ずや大聖人が照覧なさっておられることと私は信じています。

 我々正信会は非力であり小さな存在です。そして、当然のこと権威も権力も持ち合わせていません。

 ただ、逆に言えば、権威も権力も無いという状況で大聖人と日興上人の教えを求めていこうという所に、覚醒運動の意義が結実していると思います。

 是も非も共に語れること、それはとても有難いことと思うのです。隠す必要もない。そして、「辛いことや苦しいことに人生の意味があるのだ」ということを法華経の信仰からつかみ取って行くことができれば、それはまさに大聖人の御心に近づいていくことではないかと思います。

●次代へ覚醒運動をつなごう

 そういう点では、我々僧侶は法の護り手でもありますので、先程岡田代表が仰ったように、法門を求めていくことや信仰を磨いていくことと共に、次の世代にバトンタッチしていく方途を考えなければいけないと思うのです。

 私達も今日まで、時代の荒波に揉まれながらも、日興門流の信仰が尊いと思った先達の方達のお陰で、こうして今この信心に巡り遇えているわけですから、私達も同様に今自分か成すべきことを成し、知恵を絞り、工夫を重ね、小さな団体であれば小さな団体なりに、生き生きとした喜びにあふれた信仰の世界をそこに築き上げていくことが課題だと思います。

 そのためには、法門を学んで、自分の信仰の喜びを語っていく、それが今大切なことではないでしょうか。

 

(高橋議長)

一言で言うと「正信覚醒運動は今現在も進行中である」ということです。

 最高裁で我々は双方却下というこれ以上無い判決を得ました。「ではこれから何をしていくか」と考えた時、裁判が継続している間は、言ってみればケンカ相手がいたわけです。しかし、ケンカ相手がいなくなってしまえば”お山恋しい花いちもんめ”ではないですが「もう運動はいいんじやないか」と言う人も出てきました。

 しかし、「いや、我々は”宗風の刷新””祖道の恢復”を掲げてこの運動を一貫してやってきたのだ」と主張し、その立場に立とうとするのであれば、「日蓮大聖人の教えとは何か」ということをもっともっと学んでいかなければいけませんし、そしてそれぞれの信心を語り合うということがこれから最も大事ではないかと思います。

 そうして法門を学び、信仰を語り合うことによって、覚醒運動の勢いを得ていきたいと思っています。

(司会)

 時間もまいりましたので本日の座談会はこの辺りで終えたいと思います。

 大山教学部長から話がありました通り、名称裁判や任意と法人の件など平成から令和にかけての時代の話もまだございますが、また次の機会に回させての時々の状況に応じて変遷がありながらも、根には当初からの「祖道の恢復」と「宗風の刷新」があり、さらには時の経過と共に目的と意識の昇華もありました。

 仏教本来の在り方に立ち返り、大聖人・日興聖人の本来の教えを真摯に求めようという目的はずっと変わらず覚醒運動の根底に流れ、そして今後もその流れを継承すべく、正信会の僧俗共に精進を重ねていきたいと思います。

 本日はご参加頂き誠に有難うございました。

 

(以上)